Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

【参考書籍】チャールズ・マクドナルド/板井文也訳『空挺作戦』(Airborne)第二次世界大戦ブックス36 サンケイ新聞出版局(1972/06/01)

 

チャールズ・マクドナルド/板井文也訳『空挺作戦』(Airborne)第二次世界大戦ブックス36 サンケイ新聞出版局(1972/06/01)を読んだ。

小中学生の頃、図書館にあった赤い背表紙のこのシリーズをずいぶん読んだものだった。

第二次世界大戦の各国の空挺作戦について簡潔にまとめてある。多くの写真や作戦地図、機材のイラストがあり、読みやすい。

アメリカ、イギリス、ポーランドによるマーケット・ガーデン作戦。

ソ連軍による2回の空挺作戦。

ドイツ軍による西方電撃戦におけるオランダやエバン・エマール要塞に舞い降りた空挺作戦。そしてクレタ島における大規模な空挺作戦。ドイツ軍はその時のあまりの損害により、以後、大規模な空挺作戦は控えるようになった。その後は、イタリア戦線やムッソリーニ救出やアルデンヌの戦いなどで空挺作戦が行われたがいずれも小規模だった。

クレタ島の戦いの結果、ドイツとは逆に、米英は、空挺部隊を増員した。米英空挺部隊は、シチリア島では、バラバラになったり、うまく着陸できなかったり、味方に撃たれたり、枢軸軍と戦う前に死亡する兵士が続出した。

ノルマンディー上陸作戦時の空挺部隊はばらばらに降下したが成功した。

ギリシャアテネ市を制圧した。シチリア島で判明した問題を改善した結果だ。

もう味方の地上軍が占領していたところに、降下した事例もある。

日本軍メナドやパレンバンやチモール島で空挺作戦を実施した。しかし大量の輸送機を持たない日本軍の空挺作戦はこれが最後だった。その後はレイテ島で2回、小規模な空挺作戦が行われたが、いずれも失敗に終わった。

ビルマ(現ミャンマー)でのチャールス・O・ウィンゲート少将の"木曜"作戦は、大成功だった。日本側の戦記でもウィンゲート少将の部隊に悩まされたことがうかがえる。

フィリピンではコレヒドール島への降下作戦が行われた。

最後の空挺作戦は、1945年3月24日、ライン川渡河作戦の時に行われた"バーシティ"作戦だった。これは成功したが、空挺作戦をしなくても同じ戦果を得られたのではないか、という。

著者のチャールズ・マクドナルドの空挺作戦に対する評価は辛口だ。曰く、「戦略的空挺作戦は、クレタ島ビルマだけだ。」

空挺部隊の任務は、ほとんど敵の予備軍が到着するのを阻止したり、おくらせるといった、二次的なものであった。」

「輸送機と正しく訓練されたパイロットの不足」

空挺部隊が敵戦車と対等に戦うことなど、とうていできないという弱体な装備」

ノルウェーおよびオランダにおけるドイツ軍の空挺作戦は・・・ふつうの手段ででもほんのちょっとだけよぶんな時間で、おなじ結果をえられたであろう。」

第二次世界大戦で使用された空挺部隊は、一種のぜいたく品だという結論はさけられない。」他から転用される装備や兵力や特別な訓練に要する費用に対して戦果が低いということだ。

「エリートの空挺部隊が一般部隊のように地上戦に投入され損害を受けた。」

「(ベトナム戦争では)作戦のためにパラシュート部隊が不可欠であったから使ったというよりも、使えるから使ったというように思われる。」

「日進月歩で精巧さをます対空射撃をかんがえあわせると、今後、空挺部隊が大規模に使用されるとはかんがえられない。」

 

空挺作戦は見た目が派手だが、重火器を持ち込めないし、降下中は無防備なので、実際には損害が大きい。奇襲効果があれば戦果を上げることができるが、奇襲に失敗すると戦果をあげるのも難しい。

習志野空挺部隊の落下傘降下訓練を見ると、本書に載っている過去の空挺作戦について、いろいろと考えさせられる。