国際通信社の『ウォーゲーム・ハンドブック2017』には、『田原坂の戦い』というゲームが付属している。付属しているというより、このゲームが中心である。その他に、ヒストリカル・ノートやウォー・ゲームの解説、リプレイ、徳岡正肇氏のコラム『野獣げぇまぁ』がパックされている初心者向けのゲーム付き雑誌だ。
『田原坂の戦い』は、『ドイツ戦車軍団』のシステムを基にした、連絡線判定、移動、戦闘を、政府軍、薩摩軍が交互に繰り返すシンプルなゲームだ。
ルール・ブックはA4で4ページ。
ゲーム・スケールは、1ターン3日、1ヘクス約1kmに相当する。
マップはA3、1枚。ユニット数は、マーカー含めて63個。
スタックは政府軍3ユニット、薩摩軍2ユニット。
EZOCに入ったら移動停止。混乱状態(ユニットが裏)の時はZOCなし。
戦闘はメイ・アタック。CRTは戦闘比型。退却の結果が出たら攻撃側が退却させる。
ユニークなのは連絡線ルールで、高地ヘクスや山地ヘクスにいるユニットには自軍ユニットがいないと連絡線を通せないことだ。戦闘の結果、防御側を退却させることになった場合、防御側ユニットとつながらない高地ヘクスに退却させると、次のフェイズにそのユニットを動かせなくさせることができる。
陣地ユニットや政府軍抜刀隊ユニットといった西南戦争らしいユニットがある。西郷隆盛、桐野利秋、乃木希典などの個人ユニットは登場しない。
ルールの説明は、マップやユニットがカラーで載っていて、ヘクス番号も読み取りやすいサイズなのでとてもわかりやすい。ゲームデザイナーは、『長篠・設楽原合戦』のデザイナーの、じんぼただとし氏だ。
テーマは西南戦争なので、初心者にもなじみがあるだろう。日本の教育を受けた者なら西南戦争や西郷隆盛の名前は、歴史の授業でさすがに聞いたことはあるだろう。
と書いた私も、ヒストリカル・ノートを読んで初めて田原坂には西郷隆盛は来ていなかったことや西南戦争が半年以上も続いたことを知った。抜刀隊は薩摩軍だけだと思っていたが政府軍も作ったのは知らなかった。本ゲームでは政府軍抜刀隊だけルール化されている。「聞いたことがある」と「知っている」は大きな違いだと改めて実感した。
【1】初期配置
薩摩軍の勝利条件は赤い点線で囲んだ高瀬(0606)に1ユニットでも入るとサドンデス勝利。
それ以外では、緑の点線で結んだ、0502から1813までの街道で政府軍が保持するヘクス数を15ヘクス未満に抑えることだ。
初期配置時点では、政府軍はユニット数6、戦力18。薩摩軍はユニット数7、戦力13だ。
史実だと3月20日(第9ターン)に田原坂(1308)を政府軍が奪取した。吉次峠(1011)や木留(1312)は4月15日(ゲームは16ターンで終わりだが第19ターンに相当する)まで持ちこたえた。
史実では、熊本城を包囲した薩摩軍先鋒隊400人が、熊本鎮台救援のために南下した乃木希典率いる小倉第14連隊と遭遇戦が始まった。熊本城救援を急ぐ政府軍とそれを阻止しようとする薩摩軍との間の戦いだった。
【2】1877年2月22日から24日(第1ターン)
第1ターンは政府軍の手順なしで薩摩軍の手順から始め、薩摩軍戦闘フェイズを2回繰り返す、戦闘結果のARをCとみなす、という特別ルールがある。
第1ターンに薩摩軍は増援が到着するので、21ユニット57戦力になる。対する政府軍は7ユニット13戦力で戦うことになる。
薩摩軍は木葉(このは)、伊倉から、高瀬を目指す。田原坂は既に薩摩軍が初期配置の時点で占領している。
木葉はあっさり陥落。薩摩軍が高瀬を占領しサドンデス勝利するのは簡単だ、と思った。陣地ユニットがあるが、そんなもの不要だ。前進と攻撃で高瀬を落とせばサドンデス勝利だ、と思っていた。
だが薩摩軍は大きな失敗を犯した。退却させる方向を間違えた。このときは青い矢印の方向に退却させたが、点線の矢印の方向に退却させていたら、政府軍は連絡線が確保できないため、混乱状態から回復できなかったのだ。
【3】1877年2月25日から27日(第2ターン)
政府軍は増援として14ユニット28戦力を得るため、合計21ユニット41戦力になる。薩摩軍は21ユニット57戦力なのでユニット数で互角、戦力では政府軍は薩摩軍の約80%になる。
政府軍の増援部隊は高瀬に向けて移動する。「高瀬にユニット配置したいのに届かないじゃん」と思ったが、戦略移動ルールを忘れていた。戦略移動ルールは、移動開始時に街道あるいは道にいて終了まで街道、道を移動し続け敵のZOCに入らなければ移動力が倍になるルールだ。
本当は政府軍戦闘フェイズ後混乱状態の下図赤い点線で囲んだ2スタックは混乱状態から回復して表にすべきだったが忘れていた。薩摩軍はそこに攻撃をかける。
だが、ここで薩摩軍の移動ミスがある。赤で囲んだヘクスに薩摩軍ユニットを配置しておかないと次ターンの連絡線判定フェイズで連絡線が確保されていないと判定されてしまう。そうすると次ターンで、ZOCを失い移動も戦闘もできなくなってしまうのだ。
薩摩軍は戦闘後前進で連絡線を確保した。高瀬まであと1ヘクスまで迫った。この時点では薩摩軍楽勝と思った。
【4】1877年2月28日から3月2日(第3ターン)
第3ターン以後ダイスの目によって政府軍は増援として12ユニット24戦力が到着し、最終的には、合計33ユニット65戦力になる。薩摩軍は21ユニット57戦力で戦う。
政府軍は高瀬の前面に防衛線を張り、1ヘクスでも薩摩軍を押し返そうとする。
薩摩軍は高瀬目指して全軍を前進させる。政府軍1ユニットの戦力は2で、薩摩軍1ユニットの戦力3だ。薩摩軍が強くて政府軍は弱い、と錯覚する。薩摩軍将兵もそう思っただろう。しかし、政府軍のスタック制限は3。薩摩軍のスタック制限は2。そのため、政府軍は2x3=6、薩摩軍は3x2=6となり、スタックごとに見ると同一戦力なのだ。
政府軍は高瀬を守り切れた、と確信できた。
【5】1877年3月3日から3月5日(第4ターン)
政府軍は、高瀬の手前で薩摩軍と戦いながら、北から薩摩軍の背後の植木を狙う陽動作戦を始めた。植木を取られては薩摩軍は動けなくなるので、それを防ぐために高瀬前線から3スタック植木防衛に動かす。これだけでも高瀬攻略が難しくなった。政府軍は伊倉を奪取した。
【6】1877年3月6日から3月8日(第5ターン)
薩摩軍は、高瀬奪取で攻勢に出るどころではなく、木葉前面でも伊倉方面でも完全に防勢に回った。
薩摩軍は植木を防衛することに成功したが、木葉方面では包囲されそうだし、伊倉方面は吉次峠に向けて退却するしかない状況だ。全軍を攻撃に回していたので、陣地を作っていなかったが、早めに退却して陣地を作らないと防衛しきれない状況だ。
【7】1877年3月9日から3月11日(第6ターン)
政府軍は木葉、吉次峠へ向けて前進する。特に木葉方面では包囲殲滅することを目指しながら前進する。
薩摩軍は植木近郊で陽動作戦に出た政府軍を壊滅させた。しかし、吉次峠への道は政府軍に占領され、木葉方面を守る部隊も混乱状態や連絡線が途絶えて山中に孤立するなどしてしまった。
【8】1877年3月12日から3月14日(第7ターン)
薩摩軍は何とか木葉近くに防衛線を張った。また植木を守った部隊は吉次峠から植木に向かう道の出口を塞ぐ。
【9】1877年3月15日から3月17日(第8ターン)
政府軍はついに抜刀隊を出撃させた。抜刀隊は防御側の地形効果による戦力2倍の効果を無視したり、ダイスを2回振り、任意のダイスの目を戦闘結果に利用したりできる。
抜刀隊の効果は大きかった。木葉方面の薩摩軍はバラバラになってしまい、木葉は陥落した。吉次峠まで政府軍は無人の道を進めるようになった。
【10】1877年3月18日から3月20日(第9ターン)
政府軍は抜刀隊の連続攻撃だ。
抜刀隊の活躍で政府軍は1km(1ヘクス)前進する。政府軍は6ユニットの壊滅に対し、既に薩摩軍は7ユニットを失っている。薩摩軍は21ユニットだから1/3を失ったのだ。
山地に後退させられた薩摩軍は連絡線が途切れ移動も戦闘もできなくなった。ただでさえ戦力が少ないのにこうして遊軍になってしまうと薩摩軍としては痛い。このゲームでは攻撃して連絡線切れにすることをうまく利用すると勝機が増すのだ。
【11】1877年3月21日から3月23日(第10ターン)
政府軍は動けなくなった薩摩軍を山中で包囲殲滅する。
政府軍が田原坂を占領する。史実では田原坂を政府軍が占領したのが3/20(第9ターン)だから、史実より3日(1ターン)遅かった。
吉次峠も政府軍が押している。
薩摩軍は田原坂を奪回する兵力がもうないので、植木に向かう。
吉次峠は死守する。
【12】1877年3月24日から3月26日(第11ターン)
田原坂を抜かれると、薩摩軍にとって防御に適した場所はない。田原坂が激戦地になったことが納得できる。薩摩軍は既に全軍21ユニットの半分以上の11ユニットを失っている。吉次峠はまだがんばっているが、植木とその周辺の平地を守ることは不可能だ。
薩摩軍は吉次峠を放棄して、植木や木留(きとめ)防衛に向かう。しかし平地だし兵力が劣勢なので防衛する可能性は低い。本来なら熊本城まで後退しどうするか西郷隆盛と相談すべき戦況だろう。
【13】1877年3月27日から3月29日(第12ターン)
政府軍は植木を占領し街道を確保するため前進する。薩摩軍は植木から木留にかけて防衛線を張るが、地形効果のない平野なので突破されるのは時間の問題だ。
【14】1877年3月30日から4月1日(第13ターン)
政府軍は薩摩軍を各個撃破を狙う。
この後、薩摩軍は必死の抵抗を続けるが、平地では多勢に無勢、結局、全滅してしまった。
【15】感想
今回のプレイでは木葉周辺の山地が激戦地となり田原坂はあっという間に政府軍が落としたが、今回のソロ・プレイを通じて、田原坂が激戦になった意味がよくわかった。
田原坂と吉次峠に陣地を作って防衛線を張り、政府軍の進撃を食い止めるべきだった。
相手の連絡線を途切れさせる戦い方をするといいこともわかった。
また自軍の連絡線を途切れさせないようなユニット配置についてはもう少し注意しないといけない。
山地や高地で連絡線が途切れるので、迂回して包囲することが難しい。日本陸軍は迂回や包囲攻撃をよくやろうとした。ノモンハンの戦いやガダルカナルの戦いでもそうだった。それらの作戦を考えた当時の参謀達は、地図しか見ず、地形の高低や植生のような本当の地形を見ていなかったのだろう。迂回や包囲するには速度が必要だが機械化されず徒歩だけでは不可能なのだ。時代や場所や地形は異なるが、今回、『田原坂の戦い』をプレイして、そんなことを思った。
今回、『田原坂の戦い』をプレイしてみて、『ウォーゲーム・ハンドブック』シリーズは、ルールが簡単で短時間でゲームが楽しめるいいシリーズだと思った。他のゲームも入手してプレイしてみたい、と思った。