Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

【参考文献】『英独航空決戦』 歴史群像第二次欧州戦史シリーズ3 学習研究社 (1997/12/01)


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p.8 「あしか作戦」最終計画案 文/鷹光隆 CG/伊藤大地

イギリス侵攻作戦は第一波10個師団、第二波と第三波各6個師団。意外と少なかったのには驚いた。それしか運べないドイツ軍の貧弱な海運力だったのだ。

p.10 英本土上陸部隊の兵器 文・イラスト/須田幸治

LWS(水陸両用牽引車)、浮航戦車、潜水戦車、上陸用舟艇などがイラスト入りで解説されている。これらが実際に戦闘に展開されていたら・・・。当時の気密性を考えると潜水戦車で上陸することになったら隊員は恐ろしかったろう。

p.14 イギリス地上部隊の実状 ホームガード 文/白石光 イラスト/上田信

AH『電撃ドイツ戦車隊』(Crescendo of Doom)にホームガードがユニットとして用意されていた。火力4射程3士気値6、戦闘不能時の士気値5だった。

このイラストや装備品を見ると火力4は比較的高い評価のように思える。

p.16のイギリス軍の防衛態勢を見ると制空権、制海権を握れなかったドイツが英本土上陸を中止して正解だったと思う。

p.34 驚異のイギリス防空システム CG藤井祐二

この防空システムを1940年に構築していたのは凄い。4年後の日本でこのシステムができていたら、と思う。

敵機識別方法や高射砲、阻塞気球なども写真とイラストで解説されている。阻塞気球が終戦まで使われたとは驚いた。

 

バトル・オブ・ブリテンに参加した様々な航空機のイラストも載っている。He111やデファイアント。デファイアントは前方機銃を持たず後方旋回機銃のみで1280馬力で3821kgもある機体だ。ユニークな機体だが戦闘機としては使えなかっただろう。

 

p.55 ドキュメント1から5 守屋純/川上しげる/亀井宏

バトル・オブ・ブリテンの歴史的経緯と当時の日本の状況をまとめている。

ドイツ艦隊が英軍の15%まで落ち込んでいた。

バトル・オブ・ブリテン開始時、ドイツ空軍は、イギリス南部に、長距離爆撃機1300機、急降下爆撃機280機、単発戦闘機760機、双発戦闘機120機、偵察機190機、合計2650機だった。対する英軍は50個中隊(1個中隊12機)だから600機。パイロット総数は1103名だった。

 

当初はレーダーサイトや空軍基地を狙ったドイツ軍だが、都市爆撃に移行し、英空軍は息をふき返した。

 

p.103 [CG図解]英独空戦技 小林直樹/服部省吾/宇垣大成

ドイツ軍の戦爆連合の編隊の組み方、ドイツ軍爆撃法、英軍戦闘機による空戦方法が図解入りで解説している。AH『ヨーロッパ上空の戦い』(Air Force)のシナリオ作りや戦術に役立ちそう。

 

p.119 フォトストーリー 岡部いさく/高貫布士

スピットファイアの開発と改修について写真で解説。またバトル・オブ・ブリテンの銃後の様子が興味深い。

 

p.136 Analysis 「英独航空決戦」の背景 中山隆志/下河邊宏満

イギリス本土上陸作戦実現の可能性とドイツ空軍敗因の分析。

1940年6月英本土にあった陸軍師団数はわずか16個(うち機甲師団1個)だった。しかも人員半分、火砲は定数の1/6しかなかった。軽戦車や旧型戦車963両。歩兵戦車110両と巡航戦車103両の合計213両しかなかった。

対するドイツ軍は、第一梯団に、歩兵師団11、山岳師団2の合計13個師団。第二梯団には、装甲6、自動車化3の合計9個師団。第三梯団歩兵師団8個。第四梯団歩兵師団8個。合計38個師団約25万名を渡海・上陸させる計画だった。これに必要な輸送船はリデル・ハートの『第二次世界大戦』フジ出版(1978/10/25)によると、約70万トン。隻数にして155隻、小型船舶3000隻以上(はしけ1720隻、引き舟470隻、モーターボート1160隻)が必要だった。

 

海軍は1940年7月16日現在、英軍対独軍は、戦艦8対1、空母4対0、巡洋艦23対5、駆逐艦52対9、潜水艦16対47だった。

また、空軍は、バトル・オブ・ブリテン開始時に、ドイツ軍が爆撃機約1600機、戦闘機約1000機の合計2600機。イギリス軍が単座戦闘機は660機から700機だった。

 

天候の面で、9月以後は、渡海が難しい。

制空権、制海権が無い中、ドーバー海峡の50から60kmを渡るのは無謀だろう。

延期(実質的には中止)したのは賢明だったと思う。

 

ヒトラーは、もともとイギリスと戦う気がなかった。

フランスが敗れたらイギリスとは講和を結ぶつもりだった。チャーチルがそれを蹴ったのが想定外だった。

フランス戦の勝利後、イギリス侵攻作戦計画を立てるように指示した。

こんなに遅いとは意外だった。日本軍が太平洋の戦いでインドネシアやビルマ占領後の第二段作戦が軍全体で統一した考えになっていなかった。そのため、ミッドウェイに向かったり、ガダルカナルに向かったりしたことが失敗の一つとされるが、ドイツも同様だったことには驚いた。1939年9月の開戦後、半年以上の時間があったのだから、フランス戦だけでなくイギリスとの戦いについても何か考えておくべきだと思う。

 

p.151 人物群像 谷光太郎/岡部いさく/土門周平

イギリス首相のチャーチル、イギリス軍のエース達スタンフォード・タック大尉、ジェームズ・ヘンリー・レイジ軍曹、堅実な戦い方をしたジェームズ・エドガー・ジョンソン、ドイツ空軍元帥ゲーリングらを紹介している。

 

p.167 特別企画

英本土航空決戦の決戦兵器 英独のレーダー開発史 徳田八郎衛

英独のレーダー開発史。レーダー技術は、ドイツが先行していたが、イギリスが「第三善を戦場に送れ。次善は遅れる。最善はついに完成しない。」という指導で不十分な技術でもイギリス本土南岸にレーダー網を構築し、運用体制を作り上げた。一方のドイツは攻勢戦略のため、防者の兵器であるレーダーの技術革新や運用体制の整備が遅れた。

なかなか興味深い第二次世界大戦史の一つだ。

 

総航程47,000マイル シェーアの通商破壊作戦 秋山信雄

ドイツ軍ポケット戦艦アドミラル・シェーアの通商破壊作戦は、痛快な冒険譚のようだ。日本海軍にはこういう発想はなかったのが残念だ。