■季刊ミリタリー・クラシックス vol.86 2024年夏号
■出版社: イカロス出版
■雑誌18441-09
■発売日: 2022/07/21
もくじは次の通り。
第一特集は、メッサーシュミットBf109。
第二特集は、八九式中戦車イ号。
初期型は、前面上部が垂直、下部が張り出す「くの字」型。後期型では上部から下部まで傾斜が設けられた形だった。
当初は運転手席が左だったが、後で逆になった。この理由には触れていない。
国内だとやはり右が運転手席の方が運転しやすいのか?
装甲厚は車体前面17mm。側面/後面、砲塔15mm、上面12mm、底面5mm。当時の標準的火砲の37mm砲に対しては前面で概ね全距離で抗甚可能、75mm砲に対しては1,000mで絶えられるものだった。
砲は初期は37mm狙撃砲、その後九〇式五糎七戦車砲(57mm)を搭載した。発射速度は車長が装填手を兼ねた時で最大11発/分。初速は350m/秒だ。
搭載砲弾数は合計100発。
距離45mで30.4mm、350mで25.4mmの貫徹能力を持つ。だが、昭和14年(1939年)6月の試験で九七式中戦車の前面装甲板に対しては、零距離射撃でも25mmは不貫、20mmを貫通するのが限度だった。
甲型のエンジンはダイムラー型6気筒水冷ガソリンエンジンで、105馬力。乙型は三菱の空冷式6気筒直接噴射120馬力ディーゼル機関A6120VD型だった。
空冷ディーゼルエンジンの採用は、被弾時の火災発生確率が低いから、とよく言われているが、それは後付けというのは驚いた。本当は石油精製の際にわずかしか取れず、揮発性が高くて保存に適さないガソリンではなく、効率が良く、燃料の質を問わないディーゼル機関が相応しいとして、国策の中で実施されたものだったそうだ。
燃料タンクは甲型で総計250L。乙型で128Lだった。これは行動時間10時間以上にするためで、ディーゼル機関の効率性がよくわかる。
八九式中戦車は、乙型で軽戦車から中戦車になった、と一般的に言われているが、実際には、甲型乙型で重量はどちらも10tを超えている。中戦車になった理由は九五式軽戦車の制式化に伴うものだそうだ。
昭和3年(1928)3月に、要求が出された。重量11t以下。(当時の国内の港湾クレーンの性能のため) 全長4.3m、武装は57mm砲1門と重機関銃1挺以上、装甲は距離500~600mで37mm砲の斜射撃に耐えるもので、最高速度25km/h、航続力100km以上、超壕幅は2mというものだった。敵陣地を破壊して前線を突破する歩兵直協性能を持つことが目的だった。
昭和4年(1929)10月に仮制式採用された。量産は昭和5年(1930)年11月に開始された。
昭和10年(1935)5月に、九五式軽戦車(ハ号)と区別する目的で、中戦車扱いになった。
生産台数は甲型が220輛
乙型が184輛
合計404輛
同時代の他国戦車との比較では、ドイツ軍II号戦車は初期型が八九式より装甲が薄いが、C型以降は八九式中戦車に勝っている。20mm機関砲は、八九式を撃破できる貫徹力はあるが、歩兵支援任務では八九式に分がある。
オチキスH35は、装甲防御で八九式に勝るが、路外走行能力は劣悪だ。対戦車能力は新型砲弾だと八九式に勝る。乗員が二人なので戦闘能力の発揮の面では疑問だ。
T-26の走行性能は、八九式に勝る。装甲は薄いので、八九式の砲でも撃破できるが、45mm砲は1500m以上で九七式中戦車を撃破できたので、対戦車能力は、T-26に軍配が上がるか。
巡航戦車MkIは、走行性能では八九式に勝るが、装甲が薄いことと、徹甲弾しか使えなかったので歩兵支援任務には有効に使えない欠点がある。
歩兵戦車MkIマチルダの装甲防御は60mmもあるので、八九式では破壊できない。機関銃しか持たない武装では戦闘に有効に使えなかった。
満洲事変で初陣を飾り、日中戦争で戦い、ノモンハン事件では、ソ連軍陣地に夜間攻撃を決行し、奇襲に成功した。これは戦史上初めての戦車による夜間の集団攻撃だった。だが、戦車戦では苦戦を強いられた。
太平洋戦争でも老骨に鞭打って戦った。戦後はインドネシア独立戦争やインドシナでもフランス軍によって使われた。
【感想】
八九式中戦車が、その後の日本軍戦車開発に大きな影響を与えたことがよくわかった。
登場時点では、とてもいい戦車だったこともよくわかった。
「鉄牛」というあだ名だったが、そのネーミングの理由も、写真や図面を見ると、まさにピッタリだ。
ちなみにASL(Advanced Squad Leader)のユニットではこんな感じだ。
宝塔の旋回は四角い白くて細い枠線のSTだ。旋回ハンドルを手動で回したので納得だ。乙型の装甲性能が若干上がっているのは斜め装甲のせいだろうか。