

- p.7 【徹底図解】詳細地図で見るスターリングラード攻防戦の推移 1942.7.23~1943.2.2 地図製作・解説/山崎雅弘
- p.28 スターリングラード攻防戦独ソ戦の勝敗の転換点となった激戦の舞台を歩く戦場紀行 文/斎木伸生
- p.39 スターリングラード攻防戦とは何だったのか 文/守屋純
- p.46 スターリングラード攻防戦・両軍の部隊と戦域
- DOCUMENTスターリングラード攻防戦 文/山崎雅弘
- p.95 【カラー徹底図解】ドイツ軍の冬季装備 文/STEINER
- p.108 スターリングラード戦争映画ベストセレクション 文/白石光
- p.111【図説】市街戦の軍事学
- p.127 作戦・戦術分析 「青」作戦とスターリングラード攻防戦 ドイツ軍の敗因と勝利の可能性
- p.144 第二次大戦の戦局の大転回 なぜ1942~43年に枢軸陣営は敗勢に転じたのか!? 文/佐藤俊之
- p.150 カフカス油田の経済的価値 世界最大の油田地帯を巡る列強それぞれの思惑 文/山崎雅弘
- p.38 ドイツ空軍の誕生とスペイン内戦 文/山崎雅弘
- p.154 ゲーレン率いる東方外国軍課の敵情判断はなぜ誤り続けたか!? 文/守屋純
- p.158 独第6軍司令官パウルスの実像 二人の独裁者に仕えたエリート参謀の素顔 文/守屋純
- p.162 ドイツの同盟国軍の実力 装備、練度ともに貧弱なドイツの盟友たち 文/山崎雅弘
- p.168 COLUMN1 「都市」スターリングラード史 文/山崎雅弘
- p.171 COLUMN2 ソ連の中のドイツ人国家の運命 文/山崎雅弘
- p.172 COLUMN3 ドイツ軍の作戦命名法 文/守屋純
写真やイラストやCGやわかりやすい解説記事で、スターリングラード攻防戦がよくわかるお勧めのムックだ。
ウォーゲームのデザインをしたり、ウォーゲーマーでもある方々が書(描)いているので、豊富な戦況図や写真やイラストや戦闘序列などが、ウォーゲームの参考になる。
全体編集を事実上、山崎雅弘氏がやっていたのではないか、と私は想像する。全体の統一感があるし、山崎雅弘氏が書いている部分から絶好調な雰囲気が行間から伝わってくる。
p.7 【徹底図解】詳細地図で見るスターリングラード攻防戦の推移 1942.7.23~1943.2.2 地図製作・解説/山崎雅弘
青作戦から始まり、ドイツ第6軍がスターリングラードで降伏するまでを、20ページにわたり、各局面を見開きでわかりやすい戦況図で表現している。
さすがは、ウォーゲーム作成もしている山崎雅弘氏だ。
p.28 スターリングラード攻防戦独ソ戦の勝敗の転換点となった激戦の舞台を歩く戦場紀行 文/斎木伸生
ボルゴグラード(旧スターリングラード)の有名な激戦地について、ムック発売頃(2005年)の写真と解説記事だ。ママイの丘がスターリングラード攻防戦で激戦地となった理由が、写真を見るとよくわかる。
p.39 スターリングラード攻防戦とは何だったのか 文/守屋純
守屋純氏によれば、スターリングラード攻防戦は、1942年5月の第二次ハリコフ戦から1943年3月に終わる第三次ハリコフ戦までの東部戦線南部での独ソ両軍の戦闘の中で考える必要がある、とのことだ。スターリングラードでソ連側の反攻が始まる直前の1942年11月6日のスターリンの演説からは、第二戦線が存在しないため対独単独和平もあり得た、という。
ヒトラーの作戦上の誤りとして、次の三点をあげている。
(1)カフカスとスターリングラード方面に戦力を二分して二兎を追ったこと。
(2)11月19日にソ連軍の反攻が始まっても第六軍による現位置死守にこだわったこと。
(3)12月9日にソ連軍によるスターリングラード包囲網が完成後も、第六軍に脱出を認めずマンシュタインの救出作戦にも予備兵力の増強をケチったこと。
最期は、クルスク戦ではなく、スターリングラード攻防戦によって、ソ連軍が戦術面での優位を獲得した、とまとめている。
p.46 スターリングラード攻防戦・両軍の部隊と戦域
1.独ソ両軍の戦闘序列 市街戦開始時点の独軍とソ連軍の顔ぶれ 文・図表作成/山崎雅弘
ウォーゲーマーに優しくわかりやすく、戦闘序列をまとめている。部隊それぞれの戦備の状況などもわかりやすい。
2.「青」作戦の兵要地誌 2本の大河が流れる気温差の激しい大平原 文/蔵世美仲
地図だけではわからない、気候や住民などがよくわかる。
ウクライナやカフカス地域は、ソ連の中に組み込まれていたため、ソ連人として一枚岩になっていた、と、私は、恥ずかしながら思っていた。そのため、チェチェン紛争が発生したときや、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった時は、共産主義者による内ゲバみたいなものかと誤解していた。本記事を先に読んでいたら、ソ連が決して一枚岩ではなく、多数の民族が複雑な思いで、ソ連を構成していたことがわかっていた、と思う。
DOCUMENTスターリングラード攻防戦 文/山崎雅弘
【序章】独軍、「青」作戦を発動
1942年夏季構成「青(ブラウ)」作戦をドイツ軍がまとめて、開始した。
ドイツ軍の次の目標は、ソ連軍戦力の完全粉砕とカフカス地方の占領だった。
カフカス地方は、当時、世界有数の産油地帯で、ソ連軍の戦争経済を支える石油資源の重要な地域だった。この時点ではスターリングラードは重要な目標ではなかった。
これを読むと、バルバロッサ作戦の時もドイツ軍の目標がブレていたが、青作戦でも焦点が定まっていないと思った。スターリングラード攻略が重要な目標でなかったのは意外だった。
【第一章】スターリングラード攻防戦の開始
ソ連軍が退却したため、ドイツ軍はソ連軍戦力の完全粉砕に失敗した。そして、ドイツ軍によるカフカス攻勢は、兵力不足によって、頓挫する。
当初の目標が二つとも達成できそうに無い状況になった結果、スターリンの名前を冠した大都市スターリングラードが、攻略目標として、あぶり出されてきたのだ。そして、ドイツ軍はスターリングラードに突入していった。
【第二章】市街北部の工場群争奪戦
市街北部にはジェルジンスキートラクター工場、赤いバリケード大砲工場、赤い10月武器工廠があり、激しい争奪戦となった。ドイツ軍は10月30日には、市街の約9割を占領した。
【第三章】ソ連軍の冬季大反攻
意外なことだが、スターリンは、面子よりも戦略的に重要と思われる要素を優先する冷静さを持っていた。ジューコフとヴァシレフスキー大将は、反攻計画を練り上げた。
パウルス第六軍は南北わずか20kmほどの市街地に12個師団を投入した。その一方、歩兵一個師団の担当正面は、市街から離れた第五一軍団南隣の第四軍団戦区では約13km、第一一軍団の戦区では約20kmだった。ルーマニア第三軍は歩兵8個師団と騎兵3個師団の合計11個師団で、110kmほどの戦区を担当していた。第四歩兵軍団長のヴィクトル・フォン・シュヴェドラー歩兵大将は、警告を発していたが、彼は「敗北主義者」と決めつけられて軍団長から更迭された。
ソ連軍は、100万人以上の兵力、13,500門の火砲、900両の戦車、1,000機以上の航空機で、1942年11月19日、反撃を開始した。「天王星(ウラン)作戦」の始まりだ。
戦況図を見て、ソ連軍の反攻作戦は、かなりスターリングラードから離れた所で行われたことに、驚いた。文章だけで読んだイメージとずいぶん違う。
【第四章】市街放棄か? それとも死守か?
ドイツ軍はソ連軍の動きを重大視していなかった。
1942年11月23日、パウルスの第六軍はソ連軍によって包囲された!!ヒトラーは、空輸で補給をするので、現在地を固守せよ、と命じた。
第六軍では、総統命令に反してでも脱出するべき、という意見が出た。だが、パウルスは、ヒトラーの命令に絶対服従する、と決した。
レニングラード方面にいたエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥が、ドン軍集団司令官に任命された。しかし彼の手元には部隊がほとんどなかったので、必死で集結を急いだ。
【第五章】救援の失敗と第六軍の壊滅
1942年11月24日、第六軍への最初の空輸が始まった。一日300t必要だったが、この日は80tだった。
12月12日、マンシュタインが「冬の嵐(ヴィンテルゲヴィッター)」作戦を開始した。最初のうちは順調だったが、やがて前進が停滞した。
12月16日、ソ連軍による「小さな土星(マルイ・サトゥルン)」作戦が開始された。
第六軍は、「雷鳴(ドンネルシュラーク)作戦」との組み合わせでないと無理だと返事した。それはスターリングラード放棄を意味するので、ヒトラーは作戦を認可しなかった。
12月23日、チル川南方にあるモロゾフスクの飛行場がソ連軍の手に落ちた。
12月24日、マンシュタインは作戦の中止を命じた。
1月8日、ソ連軍から降伏勧告がなされた。
1月10日、「鉄環(コリツォー)」作戦をソ連軍が開始した。
1月31日、パウルスが投降した。
【終章】大勝利を掴み損ねたソ連軍
1943年1月13日、ソ連軍は「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦を発動し、ハンガリー第二軍9個師団とイタリア第八軍アルピニ軍団4個師団を潰滅させた。マンシュタインは、カフカスに突出する第一装甲軍の収容を急ぎ、2月6日、収容に成功した。
ソ連軍は、1月29日、「早駆け(スカチョーク)」作戦と「星」作戦を開始した。ヒトラーは例によって死守命令を出したが、攻勢限界点を越えたソ連軍に、マンシュタインが、いわゆる「後手からの一撃」で、ソ連軍を撃破した。
春の雪解けによって、戦線が落ち着いた。
読みやすくて、わかりやすい文章で、戦況図と合わせて読むととてもよくわかる。
p.95 【カラー徹底図解】ドイツ軍の冬季装備 文/STEINER
現代の感覚だと、極寒のロシア戦線で、とても防寒に役立ちそうもない服装で、よく戦ったものだ。
p.108 スターリングラード戦争映画ベストセレクション 文/白石光
『スターリングラード』(1993)(独・米合作)
『スターリングラード大攻防戦』(1972)(ソ)
『バトル・フォー・スターリングラード』(1975)(ソ)
『壮烈第六軍!最後の戦線』(1959)(独)
『スターリングラードからの医者』(1958)(西独)
『スターリングラード』(2001)(米・独・英・アイルランド合作)
などが簡潔に紹介されている。
こんな感じで、青作戦から、スターリングラード攻防戦、マンシュタインの後手の一撃までをテーマにしたウォーゲームも紹介してくれたらよかった。
p.111【図説】市街戦の軍事学
①概説・市街戦とは何か 攻防両者ともに犠牲が多く極力避けるべき戦闘 文/蔵世美仲
市街戦は、占領後、残った住民の衣食住なども面倒みないといけないので、部隊には大きな負担になり、費用対効果を考えると割に合わないのだ。
②ドイツ軍の市街攻撃戦術 小規模な諸兵科連合部隊が同時並行的に進める攻撃法 イラスト・文/樋口隆晴
③ソ連軍の都市防衛戦術 全周防御拠点を連ねた陣地群を用いたゲリラ戦術 イラスト・文/樋口隆晴
④狙撃兵の任務と役割 敵の代替困難な「パーツ」を破壊し砲兵の欠点を補完 イラスト・文/樋口隆晴
樋口隆晴氏はウォーゲーマーでもあるから、イラストと説明がとてもわかりやすい。そのまま『戦闘指揮官』(Squad Leader)シリーズやAdvanced Squad Leader(ASL)シリーズで使えそうだ。
p.127 作戦・戦術分析 「青」作戦とスターリングラード攻防戦 ドイツ軍の敗因と勝利の可能性
1.ヒトラーの2つの早合点と幻の「青鷺」作戦 文/山崎雅弘
「青」作戦の二つの目標のうち一つは、ソ連軍の殲滅だった。しかしソ連軍の退却速度が速くドイツ軍はソ連軍をとらえきれなかった。ヒトラーはソ連軍の退却速度が速いことを「ソ連軍の崩壊の前兆」と早合点してしまった。
「青」作戦のもう一つの目標はカフカスのバクー油田地帯攻略だった。当時、全世界の産油量の約50%を算出する大油田だった。ロストフからバクーまで直線距離で1,100km。バルバロッサ作戦開始時の国境からモスクワまでの距離より250kmも遠かった!ドイツ軍の二個軍の兵力で戦線を維持しながら前進するには、広すぎた。
ドイツ軍はどうすればよかったか?一案として、ドン川まで前進した後、アストラハンに向けて進撃すればよかったのではないか、と山崎雅弘氏は提言している。
何かのウォーゲームで検証してみたい。
2.過酷な気象条件と機体不足により失敗した空輸作戦の実際 文/佐藤俊之
スターリングラードで包囲された第六軍を維持するのに必要な物資量として、第六軍は、一日750tが必要だが、包囲環内の馬匹を糧食にあてることで、500tを要求した。空軍は一日300tの輸送は可能と回答した。この数字は、前年のデミヤンスク包囲戦で10万名が3か月間の冬季戦で一に平均300tの空輸で維持されたことから算出された。10万人で300tなので25万人なら750tだというのだ。
Ju52は一機あたり約1.5t運べる。一日300tならのべ200機必要だ。デミヤンスクではJu52が一回2tを輸送し稼働率が1/3の場合だった。その実績をあてはめて計算すると、1回1.5tとして、一日300t輸送するには、稼働率30%で700機必要だ。だが全戦線のJu52を集めても750機しか当時のドイツ軍にはなかった。
一日300tを越えたのは、わずか2日だけだった。結局、空輸したのは8,350t。一日平均117tだった。失われた輸送機は488機で搭乗員約1,000名が命を落とした。
3.ソ連軍によるヴォルガ川の渡河輸送阻止は可能だったか 文/佐藤俊之
ソ連軍はスターリングラード攻防戦の間、ヴォルガ川の東岸から兵員と物資を輸送した。ドイツ軍は空軍によってそれを阻止しようとしたができなかった。
もし、ドイツ軍が市街への突入を避け、ヴォルガ川を利用したスターリングラードへの補給阻止に全力を注いだら、どうだっただろう?
佐藤俊之氏はそれは無理だっただろう、と結論づけている。
4.繋がらない125キロと消えた「雷鳴」作戦 文/山崎雅弘
包囲された第六軍を救出するための「冬の嵐(ヴィンテルゲヴィッター)」作戦が失敗に終わった原因をまとめると次の4点だ。
(1)救出部隊の装甲兵力がソ連軍に対して相対的に劣勢だった
(2)救出部隊の攻勢発起点から包囲環まで遠すぎた。
(3)包囲から脱出する側の第六軍に内側から突破するのに必要な燃料と弾薬が不足していた。
(4)ヒトラーがスターリングラード放棄を認めなかったこととパウルスがその命令に忠実だったこと。
山崎雅弘氏は、「冬の嵐」作戦成功のためのアイデアを論理的にわかりやすく説明している。(4)については、「チェルカッスィ包囲戦」と同様に「既成事実」を作り上げ事後承諾させる案まで披露している。ぜひウォーゲームで検証してみたい。
p.144 第二次大戦の戦局の大転回 なぜ1942~43年に枢軸陣営は敗勢に転じたのか!? 文/佐藤俊之
東部戦線のスターリングラード攻防戦から第三次ハリコフ攻防戦、北アフリカでエル・アラメインの戦いからチュニジアでの死闘、大西洋ではUボート対連合軍の戦い、太平洋戦線では日本軍のガダルカナル撤退、など、1942年から43年にかけて、枢軸軍が敗勢に転じた。
その理由の一つは、アメリカがその莫大な生産力を戦線に届けることが順調にできるようになったことだ。ドイツの兵力動員の限界が見えてきたことも理由の一つだ。
p.150 カフカス油田の経済的価値 世界最大の油田地帯を巡る列強それぞれの思惑 文/山崎雅弘
カフカスの石油産出地は、バクー、グローズヌイ、マイコプで、バクーだけでも、前ロシアの産油量の95%、全世界の約50%を占めた。1940年で、ソ連は年間2億1300万バレル(1バレル約159L)を算出した。ドイツが依存したルーマニアのプロエシュチ油田は年間4300万バレルだ。
バルバロッサ作戦前は独ソは不可侵条約を結び、同盟に近い状態だった。英仏は、シリアのアレッポからカフカスの油田地帯を空爆することを検討していた。バクーまで約1,200kmだ。結局、ドイツがフランスに侵攻したため、カフカス爆撃は実現しなかった。
またカフカスチェチェン人やアゼルバイジャン人などの存在や中立を保っている隣国トルコもそれぞれの思惑があった。
p.38 ドイツ空軍の誕生とスペイン内戦 文/山崎雅弘
戦間期のドイツ空軍創設と再軍備宣言後の動向だ。
この頃はまだドイツ軍は弱小だった。
p.154 ゲーレン率いる東方外国軍課の敵情判断はなぜ誤り続けたか!? 文/守屋純
ラインハルト・ゲーレン中佐(のちに少将)率いるゲーレン機関は、スターリングラード戦以後、その判断がことごとく外れた。その理由は、ドイツ軍参謀本部はいかに教科書的に合致しているか、いかに論理的に妥当であるかどうかを判断基準としていたからだ。
ゲーレンは後に米軍に投降し、米軍情報部のもとで対ソ諜報の専門家として働き、ゲーレン機関を作り、西ドイツに「連邦情報局」(BND)ができると1968年まで長官を務めた。
どんなバイアスが自身にあるかを客観的に判断して、情報をどう読み取るか、がいかに大事かを考えさせられた。
p.158 独第6軍司令官パウルスの実像 二人の独裁者に仕えたエリート参謀の素顔 文/守屋純
パウルスが、スターリングラード攻防戦の時、独断で突破作戦を実行しなかったか?パウルスがソ連軍捕虜となりその後反ヒトラー運動に加わり戦後も東ドイツにとどまり共産主義勢力のプロパガンダに協力したか?
上は、守屋純氏が提出した二つの疑問点だ。
パウルスの経歴を見ると、「几帳面」「正確かつ精密」「上司との付き合いに巧みで穏健な性格」という評価で政治に縁がなく、「命令は命令」と割切る性格だった。
ヒトラーと陸軍の間で分断しそうになっていた「バルバロッサ」作戦案を折衷案にまとめたのがパウルスだった。
守屋純氏は、スターリングラードで降伏した時、パウルスが仕える主人が自動的にヒトラーからスターリンに交代したとみている。
律儀で真面目な「能吏」であるパウルスの行動として納得できる。
p.162 ドイツの同盟国軍の実力 装備、練度ともに貧弱なドイツの盟友たち 文/山崎雅弘
ルーマニア軍、イタリア軍、ハンガリー軍、それぞれの戦闘序列、編成、装備をわかりやすく概説している。
p.168 COLUMN1 「都市」スターリングラード史 文/山崎雅弘
スターリングラードは、かつては「ツァリーツィン」と呼ばれ、「皇后・女帝の街」を意味したが、実際には現地タタール人の地名をもとにしていた。ヴォルガ川の支流をタタール人が「サーリソー(黄色い水)川」と呼んでいたため、ロシア側は類似の発音の「ツァリーツァ(皇后・女帝)川」と呼び変え、街の名もそれにしたのだ。
1925年「スターリングラード」へ改名され、工業化が進んだ。1956年ヴォルゴグラードに改名された。
p.171 COLUMN2 ソ連の中のドイツ人国家の運命 文/山崎雅弘
1924年10月「ヴォルガ・ドイツ自治共和国」がソ連国内ヴォルガ川流域にあった。ドイツ系ソ連人が住んでいて、その数は80万人とも120万人とも言われる。バルバロッサ作戦が始まると、同共和国は廃止されてロシア連邦に吸収され、人々はシベリアや中央アジアへ連行された。
収容所では意図的にユダヤ系ソ連人を登用した。
p.172 COLUMN3 ドイツ軍の作戦命名法 文/守屋純
色別作戦命名は、ドイツが国境を接する国にそれぞれ色をつけて呼び、作戦研究をしていたことが由来だ。当時どの国もそうだった。アメリカでは英国海軍をレッド、日本海軍をオレンジと呼んで、それぞれの国に対する作戦研究をしていた。
ドイツが膨張していくと、国境を接していなかった国と戦うことになり、色がなくなったので、いろいろな名前がつけられるようになった。
戦況が悪くなっていくと、段々と神がかり的な作戦名になっていった。
