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読んだ時点でブログにあげていこうと思う。
p.2 零戦五二型をめぐる伝説を検証する 文・監修=古峰文三
零戦五二型をめぐる「伝説」を検証している。
零戦は昭和18年春までは機体全体が灰色で、前線基地で必要に応じて迷彩塗装をしていた。
[感想]
零戦五二型の登場は昭和18年8月なので、五二型は濃緑色迷彩だったと言えそうだ。
零戦は、軽量化を徹底しすぎたため、メッサーシュミットBf109やスーパーマリン・スピットファイアのように大馬力エンジンへの換装ができなかった、という伝説があるが、Bf109やスピットファイアは大馬力エンジンに換装する際、胴体、主翼を新設計したうえでの性能向上だった。
[感想]
そうだったのかぁ~。そうだとすると、日本が零戦で最後まで戦わざるを得なかったのは、日本に適当な大馬力エンジンがなかったことと、新設計するだけの人的余裕がなかったことが真の理由だったわけだ。
零戦は攻撃一辺倒の設計で防弾設備が全く考慮されなかった、という伝説もある。陸軍機に比べて防弾装備が遅れたのは事実だ。零戦の燃料タンクの構造上、外装式の積層ゴムでタンクを包むことは困難だった。また、実際、自動消火装置がついたのは零戦五二型からだった。操縦席前面を遮風版を防弾ガラスに改修したのは昭和19年からだった。
[感想]
これは伝説というより事実といってよさそうだが、因果関係が、攻撃一辺倒=>防弾設備がない、ではない、と思う。陸軍の隼がノモンハン事件の経験で防弾設備を装備していたのだから、実戦経験から防弾設備不要=>要求事項に含めなかった=>防弾設備がない、という因果関係が正しいと思う。
p.33 零戦と堀越二郎 文=古峰文三
堀越二郎は、群馬県藤岡に生まれ、藤岡中から東京帝国大学工学部航空学科に進んだ。
そして三菱内燃機株式会社に就職した。
七試艦戦、九試単戦の設計を担当した。
九試単戦は、画期的な戦闘機だったが、九六式艦戦として採用されるまでに様々な改修が加わった。
エンジンの耐久性不足のため、換装した。
着陸時の安定不足のため逆ガル翼を通常型に変えた。
大仰角での不意自転対策として胴体に背びれが追加され、無線機装備のため胴体が太くなった。陸上基地での使用のため車輪の直径も大きくなった。
零戦のもとになった十二試艦戦の要求性能は1937年の世界的レベルから見るとむしろ凡庸だった。
時速500kmは当時としては平凡といっていいだろう。
滞空時間6時間は欧米の戦闘機にはない要求だが、淳工事の燃料消費量であれば、零戦の機内燃料タンク525Lでは可能な要求だ。
[感想]
驚いたのは、航続距離が短いと言われるメッサーシュミットBf109Eの燃料タンクが400Lな点だ。よほど燃費が悪かったのだろう。
零戦の要求仕様が厳しくその実現に堀越二郎など三菱設計陣が苦労した、と言われるが、実際には、ライバルの中島との競争試作に対する「切り札」がないことが苦労の原因だったようだ。これは意外だった。
試作機零戦の問題は2つあり、高速飛行時の操縦桿が重いことと不意自転傾向だった。
後者については、垂直尾翼直下にあたる尾部下面へ「ひれ」を追加し応急処置とした。
胴体後半を設計し直し延長して水平尾翼の取り付け位置を高めた。
奥山益美職手が操縦する二号機が空中分解るす事故が発生した。
原因はマスバランスの金属疲労による切断が昇降舵のフラッター発生につながった。
競合試作相手の中島の十二試艦戦を意識する余り、空技廠の指定した強度限度ぎりぎりで合格するが、それを超えた負荷に対する余裕がほとんどない機体となった。
[感想]
厳しい要求仕様に対する対策として軽量化した、と思っていたが、中島版十二試艦戦対策で軽量化した、というのは意外だった。
後の三二型にで零戦の主翼を短縮し角形にしたのは、堀越二郎技師ではなく、本庄季郎技師だった。堀越二郎が病気療養中だったからだ。
回復した堀越二郎は五二型で、翼端の形を丸形に改めている。
角形翼端が大きく問題視された痕跡はない。
[感想]
三二型の角形翼端か五二型の丸形翼端かは、設計者の美意識のようなものだったと思う。
p.64 建武政権の崩壊 文=遠藤明子
北条氏を滅ぼし鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が京都に帰還した。新元号を「建武」とした。後醍醐が中国の歴代王朝の元号から時宜に合ったモノをを選ぶようにと希望を述べていたからで、漢王朝再興時、後漢初代皇帝・光武帝の時代に用いられた元号だった。字義は「乱を撥(おさ)めて正に反(かえ)す」だ。
朱子学の思想を理想とした後醍醐天皇の目指す政治は天皇親政だった。そして国司の権限を復権させた。国司の権限には軍事統率権も含まれていたが、それは守護の権限と重なった。国司が貴族、守護が武士だと問題になった。
血を流して戦った武士達に与える恩賞(土地)が不足し、武士達が後醍醐天皇から離れていった。
北条氏の残党があちこちで反乱を起こし、北条時行と諏訪氏がついに立ち上がった。建武二年(1335)七月二十五日、北条時行は鎌倉奪還を果たした。大塔宮護良親王を撤退する足利直義が暗殺した。
足利直義と合流した足利尊氏が、北条時行軍を破り鎌倉に向かった。北条時行軍は八月三日から四日にかけての台風の折、鎌倉大仏殿に避難していたが、大仏殿が倒壊し500もの兵を失い、士気も落ちた。
八月十九日、足利尊氏軍が鎌倉入りした。いわゆる中先代の乱だ。これは「先代」鎌倉幕府と「当代」足利尊氏の政治の間に位置する、という意味だそうだ。
足利尊氏は中先代の乱を終息させた後も鎌倉に残った。これが後醍醐天皇の疑いを招き、後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏追討を命じた。
足利尊氏は髻を切って蟄居したが、後醍醐天皇の態度は変わらなかった。新田軍が足利直義軍を破り鎌倉に迫ると、足利尊氏が立ち上がり、新田軍を蹴散らし京に迫った。
しかし足利尊氏に立ちはだかったのが楠木正成や北畠顕家らだった。足利尊氏軍は摂津まで後退した。そこで赤松則村が足利尊氏に味方し、足利尊氏は光厳上皇からの院宣を手に入れることにした。足利尊氏は九州に転進した。多々良浜の戦いで、圧倒的に不利な兵力差だった足利尊氏だったが、宮方の多くの武士が足利方に寝返り、足利軍が勝利した。厳島で光厳上皇からの院宣が届き、足利方の士気が高まった。
楠木正成は、後醍醐天皇に比叡山に避難してもらい、京に足利軍を誘い込み、出入り口を塞いで兵糧と増援を断つ作戦を考えた。しかし、彼の進言はいれられなかった。そのため楠木正成は死を覚悟し、湊川の戦いに向かう。
楠木正成は討ち死にし、新田義貞は敗走した。足利尊氏が京に入り、後醍醐天皇は位を退いて太上天皇になった。その後後醍醐は吉野に逃れ南北朝時代を迎えた。
[感想]
鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の始まりまでを簡潔にわかりやすくまとめている。戦況図や写真もあって保存しておきたい。この後の南北朝時代についてもこのような形で連載してほしい。
p.120 日本海軍航空魚雷・雷撃法発達史 文=大塚好古
1915年(大正四年)に、英海軍が航空雷撃を実戦で使用し始め、日本海軍でも試験を開始したが飛行が危険なため試験中止となった。
1917年(大正六年)のショート184水上機による14インチ(35.6センチ)魚雷投下試験が日本最初の航空雷撃の最初の事例になった。
1923年(大正十二年)、日本で最初に航空魚雷が制式化された。だがこの航空魚雷は強度不足のため運用制限が厳しかった。投下時高度は5m、機速は約83から93km/時だった。
航空雷撃戦術は、昭和三年(1928)年以後まで確立しなかった。昭和三年(1928)年以後、襲撃時の最適な奇数は三個小隊(9機)で、駆逐隊の襲撃同様に左右両舷から攻撃を加えるなどの方策が確立していった。
昭和五年(1930年)以後、夜間雷撃の研究も始まった。
昭和六年(1931年)になると、発射時高度15から25m、投下速度が約144から153km/時まで増大した。
昭和十三年(1938年)になると航空魚雷を酸素魚雷にするかどうか議論され、取り扱いが面倒かつ高価なこと、被弾時の安全性が劣ることなどから、航空魚雷としては不適当だと結論づけられた。
昭和十四年(1932年)の演習では、発射高度100~200m、機速252から288km/時で突入する多数の雷撃機による魚雷で、戦艦群が串刺しとなった。夜間雷撃でも、吊光弾で照らし出した目標に対して、投下高度80~100m、雷撃速度216から288km/時の雷撃で成功を収めた。
昭和十七年(1942年)に生産に入った九一式改三魚雷は、発射高度200m、発射速度最大441km/時だった。
昭和十七年十二月に出た雷撃教範では、高度は50~200m、機速252~360km/時となっている。
アメリカ軍は昭和十九年になると、緩降下爆撃と見分けがつかない高速(396km/時~432km/時)、高高度(レイテ沖海戦時370m、天号作戦時の「大和」攻撃時の投下高度730m)からの雷撃実施が常態化していた。
日本海軍の航空魚雷は優秀だったが、その真価を発揮できた期間は短かった。
[感想]
雷撃は、対空砲火を縫い、海面にプロペラを打ちつけそうな超低空を飛ぶ雷撃機が実施するものだと思っていた。
今回の記事を読むと太平洋戦争中に使われた日本軍の魚雷は、高度200mから投下できたのに驚いた。
アメリカ軍に至っては、高度370mから730mというから、もっと驚く。
第二次世界大戦当時の雷撃のイメージが変わった記事だった。
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