Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

『歴史群像』No.190(ワン・パブリッシング)(2025/04)を読んでみた

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もくじはこちら


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歴史群像 2025年4月号

歴史群像 2025年4月号

  • ワン・パブリッシング
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読んだ時点でブログにあげていこうと思う。

青文字は感想だ。

 

 

p.16 第二次大戦期 各国の航空魚雷 文=編集部

英米伊ソ独の航空魚雷を写した写真とその解説記事だ。

 

[感想]

日本軍だけでなく各国がいろいろと創意工夫していることがよくわかる。

 

p.20 無限軌道 走行装置を知る ①履帯の構造と材質 文・イラスト=大里元

通称キャタピラと呼ばれる無限軌道のメカニズムをひもとく短期連載だ。

 

 前:駆動輪(スプロケット・ホイール)

 下:下部転輪(トラック・ローラー)

 後:誘導輪(アイドラー・ホイール)

 上:上部転輪(キャリア・ローラー)

 

 履帯の構成要素の履板(英語でシュー)には、シングルピンとダブルピンタイプがある。

 履帯は鉄の合金でできている。英独の戦車は高マンガン鋼でできていた。色はやや黄味のある金属色で、わずかに金を混ぜた銀色が実物に近いそうだ。

 

[感想]

履帯をこうして深く考えたことがなかったので、面白い記事だった。

 

p.33 日米空母徹底比較 文=大塚好古

 

 第一部では、船型、艦橋、機関、航続力、を日米で比較している。

 日本空母の砲が米艦より復元性能がよかった。これは意外だ。

艦橋については、日本の平甲板空母は、艦橋が甲板にないので、全周見張り能力が不足していた。

 米空母の方が日本正規空母より基本的に航続力があったが、速度は低かった。日本の正規空母が米軍より高速の巡洋艦と共同作戦をとるからだ。また、日本軍は漸減作戦をとって米軍を迎え撃つ考えだったため航続力が米軍に比べて小さかった。

 米空母の缶室と機械室をシフト配置したのは抗堪性の面で有効だった。また日本艦で機関部の中央隔壁は大傾斜を発生する可能性があったため、戦争後半には日本海軍でも問題になっていた。

 第二部では航空艤装、船体防御、兵装などを解説している。

 飛行甲板の面積や長さは米空母が大きい。

 格納庫はほとんどの日本空母が閉鎖式で、格納庫に損害が出たときに、甲板を破壊したり、可燃物投棄が困難なので、この点では米軍の開放式格納庫にメリットがある。

 米軍は露天繫止として、飛行甲板では爆弾・魚雷搭載作業を行い、格納庫を「発艦準備を含めた、機体の各種整備を行う場所」としていた。米空母特有の艤装として「吊り下げ軌条」もあり、搭載機増大と整備場所確保の面で有効だった。

 本記事は空母の比較なので記載はないが、米軍機の方が日本機より小さく折りたためるのも搭載機増大に寄与したと思う。

 カタパルトは米軍空母は装備したが、日本空母では実用化されなかった。

 着艦制動装置やエレベーターは、米軍が対応重量が大きいものを装備したが、日本は、既就役艦のそれらを最新化できず、「天山」「彗星」などの新型機運用の大きな足かせとなった。

 これは私が知らなかっただけだが、意外だった。ミッドウェー海戦で沈んだ空母が生き残っていても、1943年以後は、苦しい戦いになっただろう。

 日本艦が艦深部に爆弾庫や魚雷庫を持つのに対し、米軍は格納庫内に魚雷・爆弾を格納している点は、日本観に比べて欠点と言える。

 戦闘時抗堪性では、開戦時点で6分の1~7の1、戦争末期で4分の1もの応急班員を抱えていた点で、米軍の方が優れていた。

 そんなに多数の応急班員を乗せていたとは驚きだ。

 対空兵装は、米軍が40mm機銃と20mm機銃、日本軍は25mm機銃だった。日本は、射撃指揮装置の数が米軍より少なく、レーダーも装備が遅れた。その結果、『戦史叢書』に1943年後半以降の米空母部隊の強力な対空火力いついて「無敵となった米空母群」と記載されるほどになった。

 射撃指揮装置がどういうものか知りたくなった。

 電測兵装・電子戦兵装は日米で大きな格差があった。戦争末期でも日本軍のこれらの兵装は、1942年頃の米軍レベルだった。米軍の電探による対空警戒能力、戦闘機に指示する防空戦闘能力も含めて日本軍はかなわなかった。

 まとめると、「軍艦」としての要目や各種の性能面では、日本艦は勝る点もある。大型航空機の運用を能力面で、米空母に差をつけられ、終戦時にはかなりの差に開いていた。1942年までは日本の飛行機と航空魚雷と搭乗員は米軍より優れていたが、1943年後半以降は「手も足も出ない状況」になっていた。

 

p.97 再考 中国大返し 文=入澤宣幸

 中国大返しを分析していて面白い記事だった。

 本能寺の変の情報がいつ届いたかについては、平均時速5~5.5帰路で進み続け、京を二日の午前に出発すれば高松城に三日夜~四日早朝に着くのは可能だ。

 毛利氏とは本能寺の変の情報が届く前に既に和睦に向けての話し合いがされていただろう。

 毛利氏と和睦後、五日には出発しただろう。

 その後のルート別に距離と時間と状況を分析している。

 食事についても、信長を迎えるために沿道に用意していた兵糧を使ったとも考えられる。

 結論として決して猛スピードではなく無理のないものだったといえる。ただしその無理なくやり遂げられたことこそが秀吉のもつ確実な情報網と、それに基づく想像力と的確な準備を物語る。

 

[感想]

 中国大返しはそんなに凄いことだったのか、私は常々疑問に思っていた。距離にして230kmを10日間で移動したのだから、一日平均23km。現代のように舗装されていないし、優れたシューズがない大軍勢とはいえ、そんなに無茶なことではないだろう。食事や宿についても、信長を迎えるために沿道に用意していた兵糧を使った、と私は考えていた。

 とてもわかりやすく説得力ある論の展開だと思った。