Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

【参考書籍】大木毅『勝敗の構造』作品社(2024/02/10)


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もくじはこちら


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第二次世界大戦の戦いを用兵思想の観点から分析した書籍だ。

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感想

冒頭で通説をとりあげ、主に新史料や用兵思想の観点で解説・批判し、結語で通説の誤りや大木毅氏の考えを述べる構造になっている。

どの章でも説得力ある解説で納得できる。

文章の性格としては、エッセイになるのだろうが、豊富な参考文献があり、大木毅氏の歴史家としてのプライドを感じる。

ウォーゲーマーならずとも、第二次世界大戦に興味ある人はぜひ読んでみてほしい。

 

第一章 ドクトリンなき「電撃戦」ードイツの西方侵攻(1940年5月-6月)

「1940年のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・フランス侵攻は、電撃戦による勝利と喧伝されているが、「電撃戦」という概念はなかった」というのは驚きだ。

カール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻』という書籍で、それを指摘したのだ。

1940年の西方侵攻は、「浸透戦術」をもとにして、1921年「軍務教範計画第487号 諸兵科協同による指揮および戦闘」、1923年「陸軍軍務教範第487号 諸兵科協同による指揮および戦闘」が刊行された。そして、1933年にこれが加筆修正され「陸軍軍務教範第300号 軍隊指揮」として公布され1934年に第二編も刊行された。ここに、将校の能力を高度なレベルで平準化したうえで自由な判断と行動を許した、戦後「委任戦術」と呼ばれるようになったドクトリンだったのだ。

電撃戦は、西方侵攻戦を形容する言葉であり、ドクトリンや用兵思想ではないのだ。

 

大木毅氏の他の本でも同様のことが書かれていたので繰り返しになる。歴史の通説がどうやって作られ、それが間違いであるなら、それを変えることが歴史家の役目だと思うが、そのために一次史料を読み込むことが大事なのだ、とあらためて感じた。

 

第二章 見果てぬ夢の終わりー英本土上陸作戦(1940年9月?)

ドイツによるイギリス侵攻作戦はバトル・オブ・ブリテンの結果、中止となった。だが、やっていたらどうなったか、という歴史のifを考えるのはロマンがある。1974年、イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校で1940年当時、戦闘に参加した英独の軍人たちを集めて図上演習を実施したそうだ。

 

結果はここでは触れないが、ウォーゲーマーとしては興味があるし、私もそんなゲームをぜひプレイしてみたい。

 

第三章 砂漠機動戦の序幕ー英伊軍の激突(1940年9月-41年2月)

コンパス作戦開始からのイギリス軍の北アフリカでの戦い方は砂漠の機動戦とはどういうものかを体現した戦いだった。

 

ロンメルは、この時のイギリス軍の戦い方を模倣したのかもしれない、と私は思った。

 

第四章 無用の出費ークレタ島の戦い(1941年5月-6月)

ドイツ軍は空挺部隊のみでクレタ島を占領した。その点では成功した。しかし、その後、ドイツはクレタ島を戦略的に活用しなかった。また、降下猟兵3000名以上の戦史または行方不明になったため、以後大規模な空挺作戦は実施しなかった。シュトゥデントの「クレタ島は、ドイツ空挺部隊の墓場」となったのだ。

大木毅氏の言葉によると「空挺作戦が宿命的に持っている危険性が極大化されたかたちで現出した」戦いだったのだ。

 

第五章 幻想の「重点」ー「バルバロッサ」作戦(1941年6月-12月)

クラウゼヴィッツは戦争の勝敗を決めるファクターは「重点」だと『戦争論』に書いている。

バルバロッサ作戦が計画された頃、ドイツ陸軍首脳部は、首都モスクワ攻略が「重点」だと考えた。ロスベルク・プランでは、ソ連軍主力撃滅こそ「重点」と見ていた。1941年7月のヒトラーは経済目標が「重点」とみていた。

 

このあいまいな「重点」によって、「バルバロッサ作戦は「人格のない人間」であり、あらかじめ失敗する運命にあったと断じざるを得ない。」と大木毅氏は結んでいる。

私も全面的に賛成である。

 

第六章 戦略的失敗だったのか?ー真珠湾攻撃(1941年12月8日)

真珠湾攻撃に対する批判に対して、大木毅氏は、史料をもとにして実証的に反論している。

南方資源地帯占領のためには、側面から米海軍の攻撃が予想されるので、それを防ぐために、真珠湾攻撃したのは正解だった、と私も思う。

 

現実に米海軍は残った空母部隊が少数でヒットアンドアウェー作戦で日本軍を翻弄していた。もっと大規模な艦隊だったら、日本海軍は対応せざるを得ず、苦しんだだろう。

 

第七章 勝つべくして勝つー第二次エル・アラメイン会戦(1942年10月-11月)

「第二次エル・アラメイン会戦は、戦略次元でみると枢軸軍敗北必至だった。」作戦・戦術次元で何とか対抗しようとした枢軸軍だったが、それは「戦理にかなわぬ策」だった。「モントゴメリーは、作戦・戦術レベルでも、枢軸軍に一切チャンスを与えずに攻勢を続行、戦略次元の優位を遺憾なく発揮した」と、大木毅氏はこの時のモントゴメリーの戦い方を絶賛している。

 

この戦いをテーマにしたウォーゲームをプレイして大木毅氏の論どおりか検証してみたい。

 

第八章 「物語」の退場ークルスク会戦(1943年7月-8月)

クルスクの戦いは、成功するはずの戦いが、ヒトラーの度重なる干渉によって、ドイツ軍は敗北に追い込まれた、という「物語」を私は信じていた。

しかし、大木毅氏は、機密解除されて公開された史料などから、「物語」を覆して「歴史」に変えた。

「城塞」作戦は、ドイツの将軍達がソ連軍戦力の撃破、戦線短縮を目的にして構想した作戦だった。また、ソ連軍がクルスク方面で防御戦役、オリョール、ドニェツ、ミウス、ハリコフなど他方面での攻勢戦役を連関させてドイツ軍を圧倒した戦いだった。

 

説得力ある論の展開で、歴史学での一次史料の利用というのはこういうことを言うのかと納得した。

 

第九章 第二の「タンネンベルク会戦」とワルシャワ蜂起(1944年8月)

ソ連の影響がないワルシャワ市民によるワルシャワ蜂起を、ソ連の独裁者スターリンが見殺しにした、というのが通説だ。

しかし、大木毅氏は、モーデル元帥の巧みな指揮と反撃によって、ソ連軍は大損害を受け、ワルシャワ蜂起を助けることができなかった、と書く。そして、モーデル元帥の反撃が、作戦・戦術次元を超えて、ワルシャワ蜂起失敗という政治・戦略レベルに影響を与えた実例として、もっと注目すべきだと書いている。

 

政治>戦略>作戦>戦術の階層構造があり、上の階層は下の階層に影響を与えるが、下の階層が上の階層を覆すことはできない、というのが、第八章までの大木毅氏の主張だったが、この章では、「政治・戦略と作戦の相互作用」という表現で、下の階層の影響を上の階層が受けることもある、と言っているように思う。ゼロではないが、ごく稀に下の階層が上の階層に影響を与えることがあり得ると私は思う。

 

第十章 壮大な戦略と貧弱な手段-アルデンヌ攻勢(1944年12月-45年1月)

バルジの戦いはウォーゲームの中でも人気のあるテーマだ。

戦略・作戦・戦術の各次元でそれなりの成算が見込まれており、無謀な攻勢だったわけではないが、土台がなかった、と大木毅氏は書いている。

想定以上にアルデンヌの森が装甲部隊の進撃の障壁になったり、燃料不足だったり、米軍が頑強に抵抗したりしたからだ。

 

「戦略・作戦・戦術の各次元でそれなりの成算が見込まれている」という大木毅氏の考えは少し意外だった。

 

第十一章 即興の勝利ーレーマーゲン鉄橋攻防戦(1945年3月)

アメリカ軍は、「戦略的な不利を作戦・戦術次元でのファインプレイで補う必要がなかった」ので、「リソースを効率的に配分し、計画的に投入することで、失敗や錯誤の可能性を極小化しつつ、成功を追求することができた。」と大木毅氏は書いている。だが、その例外が、レーマーゲン鉄橋攻防戦だったという。レーマーゲンの町にあるルーデンドルフ橋が残っていることを発見した第27機甲歩兵大隊A中隊長、カール・ティンマーマン少尉が、臨機応変の行動によって、ルーデンドルフ橋を占領したのだ。

 

アメリカ軍がマネジメント重視な軍隊であり、ドイツ軍の指揮官が自由な判断と行動を許されている、と対比しているが、アメリカ軍はそこまで頑迷だったのだろうか?そんなことはないように思うのだが、どうだろう?