『独ソ戦』その他の著作で有名な大木毅氏がロンメルの生涯をまとめて、軍人としての彼への評価をまとめたものだ。
もくじは以下のとおりだ。
序章 死せる狐
第一章 ロンメル評価の変化
第四章 ナチスの時代へ
第五章 幽霊師団
第六章 ドイツアフリカ軍団
第七章 熱砂の機動戦
第八章 エル・アラメインへ
第九章 アフリカの落日
第十章 イタリアの幕間劇
第十一章 いちばん長い日
終章 ロンメルとは誰だったのか
あとがき
主要参考文献
写真・図表について
ロンメル将軍といえば、私の中では次のイメージだった。
しかし北アフリカでは、イタリア軍が弱くて足を引っ張り、ロンメルの希望通りの補給があったら勝てたのに、補給物資が満足に届かず、勝利できなかった。
ノルマンディー上陸作戦時には、装甲部隊を海沿いに配置すべきと主張しながら、反対にあい、有効な反撃をできなかった。
捕虜にも非人道的なことをせず人種差別がない騎士道精神あふれていた。ヒトラー暗殺事件に連座し毒を飲んだ悲劇の名将だった。
しかし、このイメージは1970年代のもので最近の研究ではそうではないそうで、とても驚いた!!
第二章では、ロンメルに私生児がいたことが書いてあり驚いた。もっとも、約束した養育費をちゃんと払ったそうだが。
第二章の「アウトサイダー」とは、当時のドイツではプロイセン出身の将校に出世街道が約束されていたそうだが、ロンメルはプロイセン出身ではなかったから「アウトサイダー」だったと大木氏が書いている。
ドイツという国の成り立ちがよくわからないのだが、プロイセン主導でドイツ帝国ができ、プロイセン王がドイツ皇帝になったのだ。そのためドイツ軍では、プロイセン出身者が出世するようになった。
私の理解では、明治維新に例えると薩摩が徳川幕府を倒して薩摩の殿様が薩摩の殿様であり日本国天皇になった、ようなものだろうか。日本でも薩長閥が出世し、旧幕府軍出身者に出世の道が閉ざされたというから、当時のドイツもそのようなものだったのだろう。
ロンメルは「アウトサイダー」だったがゆえに自己アピールする必要があった、という大木氏の考えは、その通りだと思う。
第五章では、フランス電撃戦でのロンメルの戦いぶりが描かれている。アラスの戦いで88mm高射砲で連合軍戦車隊の反撃を封じた逸話が有名だ。しかしこれはロンメルの発想ではないらしい。
ドイツ軍の教範「軍隊式」に「特別の場合には、高射砲による対戦車射撃もまた、戦車の進出を阻止する手段たるべし」と指示されていたそうだ。
これは驚きとともに残念だ。
第八章では、1941年12月にドイツ軍師団長3人のうち1人が捕虜となり2人が死亡したとある。
補給の問題については、p.220からp.222に表とグラフがあるが、これを見るとかなりの割合がアフリカに到着しているのがわかる。「イタリア軍頑張っているジャン!」という感じだ。問題は陸揚げした後の陸上輸送だったのだ。
ロンメルの評価として大木氏は「勇猛果敢、戦術的センスに富み、下級指揮官としては申し分なかった。さりながら、昇進し、作戦的・戦略的な知識や経験が要求されるにつれ、その能力は限界を示し始めた。「前方指揮」の乱用や補給軽視といった問題点が示すように、軍・軍集団司令官にはふさわしくない短所が目立ってきたのである。」と書いている。また「ロンメルには特筆すべき美点が一つある。戦士として、闘争の対手を尊重する性格だ。」とも書いている。
本書では、実証的にロンメルの人となりを暴いており、とても説得力がある。
歴史学の実証的なやり方がいかに厳密なのかよくわかった。
第二次世界大戦戦史やロンメルが関わった戦いのウォーゲームに興味がある人は必読な書だ。