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プラモデルを昔作っていた時に買っていた雑誌を、再読してみた。
当時は、図面や、色以外ほとんど見ていなかったが、年とっていろいろな経験をしてから読むとまた違った感じがする。
開発者の手記がやはり面白い。
- 表紙 イラスト=渡辺利休
- p.3 折り込み・カラー版精密図面 作図・渡辺利休
- p.7 異色の名機キ-44「鍾馗」の生涯 内藤一郎
- p.12 プロペラの話<Part3> 佐貫亦男
- p.16 鍾馗12.7ミリ機関砲と40ミリ砲のメカニズム 高荷義之
- p.20 鍾馗のコックピット・デザイン 高荷義之
- p.22 鍾馗の塗装・マーキング集 秋本実
- p.23 二式単戦「鍾馗」塗装・マーキング集 野村茂一郎
- p.38 図と写真で見る「鍾馗」各型の変遷と特長 秋本実
- p.28 キ-44「鍾馗」の性能と特長 元「かわせみ」隊陸軍大尉 刈谷正意
- p.34 高々度飛行への挑戦-過給機(Ⅲ) 幾徳工業大学教授 工学博士 浅野弥祐
- p.42 陸軍二式単座戦闘機「鍾馗」の歩み 陸軍二式単座戦闘機「鍾馗」の主要目一覧
表紙 イラスト=渡辺利休
正面から見た鍾馗のイラストだ。機首の太さとそこから尾翼にかけて絞った機体の様子がよくわかる迫力があるイラストだ。
p.3 折り込み・カラー版精密図面 作図・渡辺利休
1/50の精密図面だ。
上面図、右側面図、前面図、下面図、左側面図、後面図が描かれている。
見ていると飽きない。
p.7 異色の名機キ-44「鍾馗」の生涯 内藤一郎
結果的には、「重戦」「局戦」だったが、最初からそれを目指したのではない、と冒頭で否定される。計画から開発、制式採用を通じて「重戦」という形容が用いられたことはないのだ。Bf109の活躍の影響はあったが、確固たる思想があって鍾馗が開発されたわけではなく、曖昧模糊とした思想だったのだ。
蝶型空戦フラップを装備し、それが不採用直前だった隼を復活させた。
鍾馗はBf109と模擬空戦をして、採用が確定した。
しかし実戦では鍾馗の特性を活かして使われたとは言い難い。
「軽戦」「重戦」という思想ではなかったのは驚いた。
p.12 プロペラの話<Part3> 佐貫亦男
佐貫亦男氏の専門であるプロペラにまつわるエッセイだ。木製の場合、木目の向きによって破断しやすい方向がある、という話は面白い。金属プロペラに変わっていくのは当然だと思う。定速式プロペラが固定ピッチ式や2段可変式プロペラに比べて優秀なこともよくわかる。
p.16 鍾馗12.7ミリ機関砲と40ミリ砲のメカニズム 高荷義之
弾丸を発射するまでのメカニズムをイラストとわかりやすく解説している。
p.20 鍾馗のコックピット・デザイン 高荷義之
鍾馗のコックピット・デザインは、ずいぶんとシンプルな印象を受ける。
p.22 鍾馗の塗装・マーキング集 秋本実
p.23 二式単戦「鍾馗」塗装・マーキング集 野村茂一郎
p.38 図と写真で見る「鍾馗」各型の変遷と特長 秋本実
昔、プラモデルを作っていた頃は、このコーナーがとても参考になった。今はプラモデルを作っていないのだが、あらためて見ると、陸軍戦闘機の塗装はカラフルでバリエーションがいろいろあることに気づいた。
二重反転プロペラのテスト機や単排気管型や40ミリロケット砲搭載機などがあったそうだが、側面図でその違いがよくわかる。
p.28 キ-44「鍾馗」の性能と特長 元「かわせみ」隊陸軍大尉 刈谷正意
実際に「鍾馗」に乗っていた筆者の文は、経験に裏打ちされていて、迫真に迫っている。「鍾馗」が登場した頃、170kg/m2に及ぶ高翼面荷重で、悪評だったが、制式採用後、飛行時間100時間ちょっとの若手でも難なく乗りこなせたのだそうだ。「軽戦偏重病にやられていたと見るべきかもしれない。」と控えめに書いているが、その通りだと思う。
「鍾馗」と日独空中試合をしたメッサーシュミット社のテストパイロットのシュテアー氏が「日本のパイロットが全部これ(「鍾馗」のこと)を乗りこなすことができたら、日本空軍は世界一になるだろう」と言った言葉が、「鍾馗」の生涯に始めから最後までつき添った刈谷氏には嬉しい言葉だったろう。
p.34 高々度飛行への挑戦-過給機(Ⅲ) 幾徳工業大学教授 工学博士 浅野弥祐
二速過給器とターボ過給器の原理と効果について、解説していて、わかりやすい。
過給器を設計・開発していたのだろうが、その喜びと楽しさが伝わってくる。
p.42 陸軍二式単座戦闘機「鍾馗」の歩み 陸軍二式単座戦闘機「鍾馗」の主要目一覧
昭和14年6月に制式指示が出て、1年後に試作1号機が完成し、1年間は改修にあたり、Me109との比較テストは昭和16年7月だ。そして太平洋に風雲急を告げる昭和16年11月に独立飛行第47中隊(通称かわせみ隊)が編成され、昭和16年12月25日に初出撃した。初戦果は昭和17年1月12日だ。
一型生産開始も昭和17年1月で制式採用は昭和17年2月だ。昭和17年11月には二型の生産が始まり、昭和19年末には生産終了となった。
開発期間が2年もかかっているのをみると、当時の日本陸軍が刈谷氏のいう「軽戦偏重病」にひどく罹患していたことがよくわかる。

