Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

『ウォーゲーム日本史』第13号(2012/04/01) 付録ゲーム『最後のサムライ西南戦争』

国際通信社『ウォーゲーム日本史』バックナンバーへのリンク


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もくじはこちら
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p.3 表紙制作ノート 君の名は? 画・文/宇野道夫

表紙の左は西郷隆盛。右は大久保利通と思ったら村田新八だそうだ。

一番印象に残る中央の若者は?

村田新八の息子で民謡『田原坂』に登場する美少年のモデルとされた、村田新八の息子の村田岩熊だそうだ。

雨の中、彼は何を思っているのだろう?

その目は空の一点を見据え、口元はキリッと引き締まっている。

絵を描いた宇野道夫氏は「覚悟」ではなく「決意」を描きたかったとのこと。

あくまでも「未来を見つめている」ところを描きたかったそうだ。

とても印象に残る表紙だ。

 

p.4 最後のサムライ 「西南戦争」歴史概説 文/平群雄志

西南戦争が起こるまでの経緯がわかりやすい。西南戦争そのものの経緯はあまりに簡略なのが残念。

あと1ページ増やして田原坂以降の戦いの様子を描いてほしかった。

 

p.6 西郷軍の編制と兵力 文/鈴木徳臣

『西南記伝』には薩摩軍は約3万名と記され通説となっている。

『賊徒処刑及免罪表』では43013人のうち40148人が免罪となっている。

従軍者名簿からは4万人前後とするのが妥当だろう。

 

西郷軍は歩兵5個大隊(一番から五番大隊)、砲兵2個大隊、独立歩兵2個大隊で構成されていた。

一番から五番大隊は、一個大隊が10個小隊で構成されていた。

1個小隊が約200名前後だった。

1個小隊は4個分隊で1個分隊は5個の伍組から構成されていた。

 

独立大隊は2個大隊で総員約2000名だった。

 

党薩隊は12隊で通説では7000人だが河野弘善氏の調査では11000人が参戦したとされる。

 

これはこの付録ゲームのユニットを理解するのにとても助かる記事だ。

詳細な部隊編制がわかっていて驚いた。

 

使っていた武器や軍装についてもわかりやすい。

戦いの経緯や募兵の様子もわかりやすい。

惜しむらくは戦況図と合わせて解説してほしかった。

まあ、そこは自分で勉強しろ、ということか

 

p.12 連載:中世日本の城塞 熊本城 文/来栖平次郎

熊本城の歴史と現状を、豊富な図と写真まじえて解説している。

応仁年間(1647-69とあるのは誤字だろう。正しくは1467-69だろう。)に最初に「千葉城」として築かれた。

明応年間に「隅本城」が築かれた。

天正15(1587)に隅本城に入った佐々成政は豪族たちの反発を受け失脚。

加藤清正と小西行長が肥後を統治することになった。

関ヶ原の戦い後、加藤清正が千葉城や隅本城を取り込んだ巨大な熊本城を築城した。

 

城のガイドブックならこの記載でも十分すぎるくらいいいが、ウォーゲーム雑誌なので、西南戦争で、政府軍がどう守り薩摩軍がどう攻めたかを解説してほしかった。

 

p.16 西郷さん伝説 文/中嶋真

西郷さんの写真事件や軍票「西郷札」がお守りになったり、「実は生きている」説などの西郷隆盛人気についてのコラム。

「大まかで小さなことは気にしない」「他人のために一肌脱ぐ」のが人気の秘密だろう。

 

p.18 『最後のサムライ西南戦争』バトルレポート 肥薩の天地秋さびし 文/ウォーゲーム日本史編集部

付録ゲーム『最後のサムライ西南戦争』のリプレイ記事だ。

二回のプレイをわかりやすく説明している。

一回目は薩摩軍完敗。

初めてこのゲームをプレイする薩摩軍だと慎重になるだろうからこの結果は致し方ない。

二回目は薩摩軍はかなり積極的に攻勢に出る。しかし強襲上陸に失敗し田原坂を抜けず九州東岸を南下した政府軍に宮崎を奪取され、ジ・エンドだ。

参考になるリプレイ記事だった。

 

p.22 西南戦争紀行 文/じんぼただとし

西南戦争にゆかりの地についての写真と説明。

大阪砲兵工廠、鹿児島の私学校跡、田原坂、城山の写真と解説だ。

 

p.23 ウォーゲーム日本史バックナンバーレポート『志士の時代』俺(おいら)はフィクサー やくざなフィクサー 文/神保忠俊

『ウォーゲーム日本史』第8号の紹介とリプレイ記事だ。

なかなか面白そうなゲームだ。またまた物欲を刺激する良記事だ。