Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

K2P『ドイツ装甲軍団1』(ガザラの戦い)ヒストリカル・ノート

国際通信社の『ドイツ装甲軍団1』の中に入っている『ガザラの戦い』について、大木毅『「砂漠の狐」ロンメル』角川新書(2019/03/10)のp.204からp.215をもとに、盤上にユニットを並べて雰囲気を確認してみた。

あくまで雰囲気であり、ユニットの位置や部隊名が不正確であることをお断りしておく。


f:id:Haruichiban0707:20220822231246j:image

枢軸軍の攻撃計画は第90軽歩兵師団はエル・アデムを、第15、第21装甲師団は北で英軍戦車隊を陣地帯北部を背後から攻撃するものだった。



1942/05/26 1400頃

英軍北部への攻撃が順調に進んだ。

1942/05/26 2000

攻撃初日の目標地点に到達。

1942/05/26 1700または2030ヴェネツィア作戦」発動

1942/05/27 0430 アフリカ軍団進撃開始。東端が第90軽歩兵師団。その内側を第15装甲師団と第21装甲師団とイタリアアリエテ師団とトリエステ師団が北上する。

 

英軍戦車隊にはM3グラントが配備されており、当時のドイツ軍III号戦車やIV号戦車ではグラントの正面装甲を撃ち抜けず苦戦した。数の上でも枢軸軍560輌に対し英軍849輌と枢軸軍は不利だった。

1942/05/27

第90軽歩兵師団は英軍に止められ圧迫されていた。

ドイツアフリカ軍団はビル・ハケイムの北、トリグ・カプッツォ付近で停止、西、東、北から英軍に押し込まれていた。

ビル・ハケイムではドゴール率いる自由フランス軍がイタリア第20快速軍団を撃退していた。

英軍はこの陣地を「大釜」(コードロン)と呼び、ドイツ軍は「ソーセージ煮釜」(ヴルストケッセル)と呼んだ。今では「魔女の大釜」(ヘクセンケッセル)と呼ばれる。

 

1942/05/29

アフリカ軍団は危機的状況に陥った。

クリューヴェル装甲兵大将が乗機を落とされ捕虜になり05/28には第15装甲師団長のフェールスト少将が負傷していた。

ロンメルは退却を決意する。

来た道を戻るのではなく西に突破するのだ。

1942/06/01
枢軸軍は西へ突破し補給路を確保し窮地を脱したのだった。

その後枢軸軍はビル・ハケイムを攻撃する。

 

1942/06/10

自由フランス軍は枢軸軍の包囲を突破し脱出した。捕虜となったのは約1000名。ドイツ国防軍最高司令部は自由フランス軍将兵をその場で銃殺することを命じていたが、ロンメルはその命令を無視したのだった。

 

1942/06/12から13

大戦車戦が展開され枢軸軍が勝利した。

 

1942/06/17

アフリカ軍団がガンブートに到着。

1942/06/20 0520 第二次トブルク攻撃が開始された。

1942/06/20 1700 トブルク市街と港湾への攻撃開始。

 

1942/06/21 0500 ロンメルがトブルク市内に入った。

1942/06/21 0940 南アフリカ第二師団長クロッパー少将が降伏した。33000人の英軍将兵が捕虜となった。

1942/06/22 ロンメルは元帥になった。

 

この戦いは戦況図を見ても矢印が混沌としておりよくわからなかった。

今回改めてまとめてみて少しはわかった気がする。