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■日本陸軍のロジスティクス 日露戦争期の兵站の実態 長南政義
日本陸軍は伝統的に作戦優先で兵站を軽視している、というのが定説だ。
私はそれは違うと思っていた。
兵站を軽視はしていないが、兵站を確保できないから撤退、あるいは攻勢をやめる、という選択ができず、精神論で作戦を強行した、のだと思っている。
長南氏は、も同様の「日本陸軍がいつから兵站を軽視し始めたのか?」という疑問を持っており、日露戦争時の日本軍の兵站を詳細に研究して本論考にまとめている。
長南氏は700ページ超の大作『新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説』(並木書房)(2015/06/03)を書いており、本論考でも多数引用されている。
「日露戦争の日本陸軍の兵站は戦争開始初期の混乱こそあったものの、遼陽占領以後は、極めてスムーズに運営された。」
その背景は「補助輸卒隊や支那馬車など兵站の最前線を担う人間の努力、隈徳三、大谷喜久蔵、斎藤常三郎、日匹信亮などのような優秀な人物が兵站の要所に配置されていたこと、そして山県有朋・大山巌・児玉源太郎といった統帥を担う高級将官が戦線拡大を抑制して後方連絡線の長さを適切に維持しつつ、兵站能力に見合った作戦を展開したこと」にある。
日露戦争では、辻政信や牟田口廉也のような補給を軽視した人がいない、あるいはいたかもしれないが、それを抑えて理性的な判断をして戦争を実行したことがわかる。
谷寿夫が大正十四年(1925)に陸軍大学校での講義をまとめた『機密日露戦史』で作戦が兵站に拘束されたことを批判する記述が存在するそうだ。長南氏は遅くともこの頃から兵站を重視した史実を歪曲して解釈する考え方が発生していた、とまとめている。
定量的でとてもわかりやすい記事だ。
『新資料による日露戦争陸戦氏 覆される通説』も読んでみたくなった。
追記:満洲軍倉庫糧秣備蓄量という表がある。その中で明治37年9月4日はほぼ9個師団分237日分の主食を備蓄していた。それが半年後の明治38年4月24日には27個師団分でなんと2949日分に膨れあがっている。
「そんなに主食を集めてどうするつもりだったのだろう?10年戦うつもりだったのだろうか?」と思ってしまった。
■更新履歴:
2024/01/11 長南氏の疑問内容が私とは少し異なるので修正
2024/01/11 満洲軍倉庫糧秣備蓄量について追記