Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

堀場亙氏のTwitterスペース「ゲームの中の帝國陸軍」を聴いてみた

堀場工房の、毎月第一水曜日に開催されている堀場亙氏によるウォーゲームスペースを生放送で聴いた。

 

テーマは「ゲームの中の帝國陸軍」だ。ちょうど堀場亙氏が国際通信社から同名の本を出版したからタイムリーなテーマだ。

 

内容は、次のようなことだった。

 

■ウォーゲームスペースの今回の内容

昭和の大日本帝國陸軍を扱ったゲームでは、ほぼどのゲームでも次のような表現がされ、ルール化されている。
 1)高いモラル
 2)ジャングルなどでの超人的な行動能力や隠蔽能力。
 3)カミカゼと表現される特攻や、バンザイ突撃
 
1)については、説明が必要だ。日本語の「モラル」という言葉には、誰も見ていないところでゴミを拾うなどの道徳的な意味があるが、ここでのモラルはそうではない。
欧米の軍隊ならば組織としての軍隊が崩壊したり降伏するような状況でも、組織を維持して継続して戦う士気の高さを指す。

 

その後、ドイツ軍がなぜ「カッコいい」とされているか、に進んだ。

 

そして、堀場亙氏お勧めの大日本帝國陸軍を扱ったゲームの紹介だ。

Microgame Co-op『Battle for China』だ。『コマンドマガジン』第42号の付録となった。

『Battle for China』は、ウォーゲームというより政治ゲームで、国民党軍と日本軍と共産党軍で軍隊を動かしながら政治ポイントを競うそうだ。
支那事変の状況をうまく表現したゲームのようだ。

 

■私の気づき

私は、個人的に、大日本帝國陸軍が登場するウォーゲームをなぜかあまりやる気が出ない。
その理由はよくわからないが、その理由が何かわかるかもしれない、という観点で、今回のスペースに参加した。

 

参加してみて私としては次のような気づきがあった。

 

大日本帝國陸軍を扱ったゲームをしたくない理由は何だろう?

 

一つ目は倫理的な問題だ。

現実に人が命を落としたり負傷している戦争を、「ゲーム」として「楽しむ」ことはいいのだろうか?
これについては、私達は、歴史小説や戦記や映画で、人が死ぬ場面も含めて、読んだり見ている。
新聞やニュースなどの報道でも、それらの記事や映像を、読んだり見ている。
それらはいいが、ゲームは不謹慎だと感じてしまうのはなぜだろうか?

歴史小説や戦記やドラマや映画や新聞やニュースは、情報をインプットするだけだが、ゲームの場合、ユニットとして表現されている人を動かす、つまりアウトプットするからだと思う。
ゲーム上とはいえ、プレイヤーは、ユニット(人)を動かし、負傷や死を命じる立場になるからだろう。
大日本帝國陸軍ゲームだと、知人や自分の先祖に命じる立場にプレイヤーが立つからだ。
そのプレイのせいで、その部隊(ユニット=兵士)が除去され、今目の前にいる対戦相手がこの世に存在しなくなるかもしれない、という感覚がどこかにあるからだと思う。
別な言い方をすると、情報をインプットするだけなら第三者だが、ゲームでユニット(兵士)に命じる立場になると、加害者とも言える。
外国の軍隊だと、その感覚がずっと遠くなるから、そういうことを気にせずプレイできるのだろう。
遠い存在の外国人に対してゲーム上で命じるのはいいが身近な日本人に対してはゲーム上で命じるのはダメという理屈は成り立たない。
論理的には、遠い存在だろうと身近な人に対してだろうと、ダメならダメで、いいならいいはずだ。
しかし、遠い存在である人に対する加害はいいが身近な人に対する加害はダメという感覚を持ってしまう・・・人間とはそういうものなのだ。

 

二つ目は、表現されていないものごとについての複雑な感覚だ。
先にも挙げたが、昭和の大日本帝國陸軍を扱ったゲームでは、共通して、次のようなことがルール化されている。
 1)高いモラル
 2)ジャングルなどでの超人的な行動能力や隠蔽能力。
 3)カミカゼと表現される特攻や、バンザイ突撃


だが、単純に数値化されたりルール化されることに対する抵抗感が沸き起こる。


例えば、当時の日本軍なら、どこでも誰でもバンザイ突撃したのか?
他の戦場でバンザイ突撃したから、この戦場でもそのルールを含めていいのか?
時期や上に立つ者によってはバンザイ突撃を禁止した戦場がある。
結果的にバンザイ突撃をした戦場であっても、そこに至る過程は一つ一つ異なるはずで、そう簡単にルール化して割り切れるものではない。

 

ウォーゲームも、ドラマや映画や小説同様、現実や思想を表現した作品である。
表現である限り、現実を何らかの視点で切り取り、場合によってはデフォルメして作品として、鑑賞者の目の前に現れる。
表現者の視点から外れたものごとは、捨てられる。表現されていなくて埋め込まれていたとしても、捨てられたように見える。
表現するということはそういうもので、現在の技術では、避けようがない。

将来、360度撮影技術ができ、ありとあらゆるところから撮影できるようになると別かもしれないが。

 

作者が立っていない視点を知る者や、作者が切り取ってしまったものを知る者は、「こんな見方があるのに。」「こういうこ事実が抜けている。」と言った思いを抱く。大日本帝國陸軍ものだと、私達日本人は身近な人から聞いたり、本や映画やドラマで見たり聞いたりしたことで、ゲームデザイナー(特に外国人デザイナー)が立っていない視点や切り捨てた事象を、知っていることが多い。
そのため、「このゲームのこのルールは、史実と違って違和感あるんだよな」とか「このゲームは、ステレオタイプで日本軍を表現していてこういう点が足りない」のような評が出てくるのだ。
そういう感覚が、ユニットの数値やルールに対する割切れなさや抵抗感の正体だと思う。

 

40年前にウォーゲームをプレイし始めたときは、ウォーゲームは史実や歴史のifを再現する万能なものだと思っていた。
今は、ウォーゲームも表現の一種であり、作品の一つだと思えるようになった。
作品だからデザイナーの視点がどこにあり、どういう意図で何を主張したくてゲームを作ったかが重要になる。

 

堀場亙氏のウォーゲームスペースに参加して、そんなことに気づかされた。
もやもやしていたものに対する気づきがあると、なんだか気分が楽になる。
難しいことは抜きにして、これからもウォーゲームを楽しんでプレイしてみたいと思う。