Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

GJ021『上野戦争』ヒストリカル・ノート

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ゲームジャーナル第21号(以下GJ021)には日本史ゲームが3個ついている。

そのうちの一つ『上野戦争』について、史実を調べてみて、なるべく史実通りに並べてみた。

参考にしたのは、GJ021のp.24『彰義隊最期の日 上野寛永寺の戦い』と『歴史群像』第165号(2021年2月号)長南政義『戦史分析 上野戦争』だ。

 

ユニット数30個

マップはA3x1枚(ヘクス数7x12)

ルールブック3ページ

1ターン=約1時間

1ユニット=約100人

ヘクスの対辺距離の記載はないが、谷中<=>団子坂が直線距離で約600mで、ヘクス数3だ。谷中<=>寛永寺も直線距離約600mでヘクス数3だ。従ってヘクスの対辺距離は約200mに相当する。

 

本ゲームのマップには古地図が印刷されている。

古地図に従うと、不忍池の島があるところは、写真の白ダイスを置いたヘクスになる。

ヘクス0404,0504,0505,0604の4ヘクスが不忍池になる。

写真の赤ダイスを置いたところが古地図で「ユシマ天神」となっており、ゲーム上の湯島天神ヘクスと比べると2ヘクス(約400m)ほどズレている。

不忍池の位置が0505だとすると古地図どおり赤ダイスの辺りが正確な位置になるだろう。

だが、そうするとゲームバランスが崩れて彰義隊がきっと有利にななるだろう。

古地図は測量の上描かれたものではないので、精確ではないので参考程度に考えた方がいいだろう。

また、ウォーゲームのマップも精確さよりゲームとしての面白さや、当時のリーダー達が感じたことの再現に重きを置いているのだから、これはこれでいいと思う。

 

天王寺が今の日暮里駅近くにある天王寺だとすると、団子坂は下の写真のピラミッド型ダイスを置いた辺りが正しいようだ。


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私は、「ここが不正確だからナットラン~!」「史実通りじゃないからダメだ~」などと野暮なことを言う気はない。

そもそも歴史ー特に戦争の歴史ーなんか精確に記録されていないからだ。

記録を保存する前に自分や友軍の生命を優先して戦っているからだ。

後から振り返っても、そこには記憶違いや美化があるのは当たり前で、精確な戦史は残っていないと思っていい。

後世の人間は、残された記録を複合的に見て、当時の状況を再現するのだが、そこは限界があることを理解した上でなければいけない。

 

上野戦争があった年の5月1日から7日まで雨天続きで8日は豪雨、14日も雨で、田畑は浅いところで三尺(約90cm)深いところで五尺(約150cm)の濁水で覆われていた。そのため、マップ上では水域として扱われている

 

官軍には彰義隊討伐に2万人以上の兵力が必要という意見もあった。彰義隊が何人上野にいるかわからなかったのだ。実際には当初2000人、脱走者が続出し5月15日には1000人程度だったと言われている。

 

もともと西郷隆盛は、長州と薩摩で同時に南北から攻めかかろうとしたようだ。

しかし、長州藩は配布されたばかりのスナイドル銃の操作に手間取り一時戦線を離脱していた。

上の写真ではそのため、地図盤西端に長州藩5ユニットを配置している。

また本ゲームでは地図端東端わ根岸(0908)に官軍は部隊を配置できるが、彰義隊が逃亡できるようにしていたことから部隊を配置していない。

 

【1】午前中の戦況

薩摩藩御兵隊緒方藤之丞らが第一発を放ち三橋の陣地を占領した。

マップ上に三橋は描かれていないが、マップ上の0405黒門口ヘクスとヘクス0404のヘクスサイドあたりだろう。

黒門口に薩摩藩兵が正面から攻撃をかける。

熊本藩不忍池の対岸から砲1門で砲撃する。本ゲームでは熊本藩の砲はユニット化されていない。たった1門だからだろう。

鳥取藩兵が仲町方面から攻撃する。仲町がどこなのかはよくわからない。

新政府軍砲兵が本郷台地(マップ上の0504、0403周辺)から合計13門の砲で砲撃する。

この砲兵隊もゲームではユニット化されていない。

彰義隊はこの砲撃で食事をする暇さえなかったようだ。

彰義隊は山王台(0507)からの砲撃で薩摩軍を苦しめる。

 

町家で火事が発生したため、薩摩軍は黒門口を正面から攻めず不忍池畔から攻めようとするも彰義隊の妨害に遭い失敗した。

西郷は不忍池畔から引き再度黒門口正面からの攻撃を開始した。

しかし、黒門口は膠着状態となった。

 

【2】午後の戦況

鷹取春朔(小野保、津藩)や河田佐久馬(鳥取藩)らが料理屋雁鍋の二階から山王台を狙撃できることを発見した。戦争の真っ最中に料理屋が営業していたのか、官軍が入って料理屋の施設を使って食事ができるようにしていたのか、知りたいところだ。

雁鍋の位置はマップ上にないが、おそらくヘクス0306の上の方かヘクス0307の上の方だろう。

そこから山王台の彰義隊砲兵を狙撃したのが戦局を打開した。

熊本藩鳥取藩が雁鍋方面から山王台に突入し山王台を占拠し黒門口の彰義隊を撃ち下ろした。

激戦の最中、薩摩藩兵の後方に彰義隊が回り込み、薩摩藩士藤堂仁右衛門と会話している西郷隆盛が狙撃される事態が起こっていた。幸い西郷は無事だったが、この銃弾が西郷を貫いていたら歴史はどうなったかわからない。

 

一方、午前中離脱していた長州藩兵も団子坂から谷中方面へ突入していた。

そんなに簡単にスナイデル銃の使い方をどうやって伝授したのか、長州藩兵全員に伝授できたのか、知りたいところだ。

佐賀藩のアームストロング砲も命中し始め吉祥閣を焼いた。

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根岸方面から偽会津藩兵が乱入し彰義隊は浮き足立ち敗走した。


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官軍の戦死者は34人、負傷者78人。(死傷者のうち薩摩藩は47人)

彰義隊の戦死者は205人だった。(歴史群像)

(GJ021の記載では、官軍の戦死者43人負傷者72人 そのうち薩摩藩の死者9人負傷者30人 彰義隊の戦死者は少なくとも200人以上)