教科書にも載っている有名な長篠・設楽原合戦のヒストリカル・ノート。国際通信社の『ウォー・ゲーム日本史第7号 長篠・設楽原合戦』の地図やユニットを使ってまとめてみた。
1575(天正3)年5月8日(1575年6月15日) 武田勝頼軍15,000人が、奥平貞昌が500人で守る長篠城攻撃開始。
5月13日(6月21日) 織田信長岐阜出陣
長篠城では、武田軍が井楼(せいろう 兵を登らせて敵状を見る櫓)を築いたり金掘人夫を動員して土塁や石垣に穴をあけたりする。徳川軍は何とかそれを防ごうとして戦う。
5月14日(6月22日) 長篠城の瓢丸(ふくべまる)、三の丸、弾正郭を武田軍占領。
あとは二の丸、本丸、野牛曲輪のみ。
信長と家康が岡崎で合流。
5月16日(6月24日) 信長岡崎出発 牛久保着陣
城方に向かって「援軍は来ない」と叫ぶ約束を破り「援軍が来ている」と叫んだ鳥居強右衛門が磔刑にされる。
5月17日(6月25日) 信長野田着陣
5月18日(6月26日) 信長設楽原着陣
馬防柵突貫工事開始
5月20日(6月28日)
連合軍は三日間かけて南北2kmにわたる馬防柵を完成させた。
5月21日(6月29日)
午前6時武田勝頼が突撃命令を出す。
迂回した酒井忠次による鳶ヶ巣山奇襲の前だったのか後だったのかはよくわからないらしいが、私は後だと思う。前夜雨の中、山中を駆けて鳶ヶ巣山にたどり着いたことと、先に鳶ヶ巣山で戦いが始まると勝頼が撤退する恐れがあり信長の本意である設楽原に勝頼を攻めさせる作戦が破綻するからだ。
前夜の雨によるドロドロの足下。前方には馬防柵。そこから撃ち出される想像以上の鉄砲の弾丸。武田軍諸将はその中を突撃していった。ある者は馬防柵にたどり着く前に落馬し絶命した。ある者は馬防柵を一線、二線を突破し、三線目で力尽きた。
最近の研究では、鉄砲隊が交替する鉄砲の三段撃ちはなかった、とされている。人が入れ替わるには戦場が狭すぎるからだ。私は、鉄砲を持った人が交替するのではなく、準備の終わった鉄砲を前の人に手渡すようなチーム体制で闘ったのではないかと思う。
ともかく鉄砲隊の数の多さが当時の武田軍の常識を超えていたことは確かだろう。
午前6時に始まった戦いは午後1時頃には大勢が決まった。武田軍は多くの有力武将を失い、撤退に入り、織田・徳川連合軍は追撃に入ったがあまり深追いせず、長篠城に引き揚げた。
武田軍で討ち死にしたのは下の将兵
生き延びたのは以下の将兵
史実通りにユニットをマップ上に並べると、武田勝頼がわざわざ設楽原で闘う必要はなかったとあらためて思う。なぜ、のこのこと設楽原に出ていき、馬防柵に突撃したのだろう?よほど織田・徳川連合軍が弱い、と認識していたか、織田・徳川連合軍の有力武将が裏切るという情報でも得ていたか、だろう。逆に言うと、織田信長が勝頼を設楽原の馬防柵の前にうまく引きずり出した、と言える。
こうして並べてみてあらためてこの戦いでわかっていることの少なさがよくわかった。
参考文献
長篠の戦い 「歴史群像」シリーズ合戦ドキュメント1 | 二木謙一 |本 | 通販 | Amazon
『週刊 絵で知る日本史1 長篠合戦図屏風』集英社(2010/10/14)
週刊 絵で知る日本史 創刊号 長篠合戦図屏風 | |本 | 通販 | Amazon
『週刊新説戦乱の日本史(1) 長篠の戦い 織田信長』小学館 (2008/02/05)