Haruichibanのウォーゲームのおと

80年代にシミュレーションゲームにはまったが長い冬眠に入り、コロナ禍やライフイベントの変化により、再開した出戻りヘッポコウォーゲーマーのノート。

WGHB2011/BG『日露大戦』ヒストリカル・ノート

 

WGHB2011『日露大戦』を対戦して、ほとんど日露戦争の事を知らない事に気づいた。2024年は日露戦争開戦120年ということで雑誌『歴史人』No.161(2024年5月号)で特集をしていたので、それをもとに、BG『日露大戦』のマップ上でユニットを並べてみることにした。

この雑誌記事にはロシア軍については師団名など書いていないので、このブログでは適当に並べていることをお断りしておく。

www.rekishijin.com

【1】日露国交断絶から開戦

 1898年 ロシアが遼東半島を租借し旅順に海軍基地建設開始

 1898年3月 西・ローゼン協定

   日本がロシアによる遼東半島租借を了承するかわりにロシアは日本の朝鮮半島における利権拡大を承認

 1903年4月 ロシア軍が鴨緑江を越えて満洲から朝鮮半島へ侵入

 1903年6月23日 御前会議で朝鮮半島の一部たりともロシアに譲歩しないこと、ロシアとの海戦も辞さないことが決定された。

 1903年8月 日本がロシアと満韓問題の討議開始

 1903年10月 ロシアからの回答

  満洲はロシアの支配下なので交渉対象外で朝鮮半島南部の排他的権益を日本に認めるという内容

 1903年12月30日 対外政策の大枠が決まる

  清国には中立維持させ、韓国政府とは交渉せずに朝鮮半島を占領する

 1904年1月12日 陸軍の戦争準備整う

 1904年2月4日 御前会議

  日露開戦決定

 1904年2月6日 ロシアに国交断絶と日本公使館員の引き揚げを通告

 1904年2月8日 臨時派遣隊が仁川上陸

 1904年2月9日 ソウル占領

 1904年2月9日 聯合艦隊旅順を奇襲攻撃 仁川沖海戦

 1904年2月9日 ロシアが対日宣戦布告

 1904年2月10日 日本も対露宣戦布告

 1904年2月11日 青森県西岸沖で奈古浦丸がウラジオ艦隊により撃沈される。

 1904年2月から3月にかけて日本軍第一軍(近衛師団、第2師団、第12師団)が朝鮮半島で行動していた。

 1904年2月24日、3月27日 旅順港閉塞戦

【2】鴨緑江会戦

 1904年4月25日 朝鮮半島東岸の新浦沖で金州丸がウラジオ艦隊により沈められた。

 1904年4月 旅順口に敷設した機雷に触れて戦艦ペトロパウロフスクが沈没しマカロフ中将が戦死

 1904年4月30日から5月1日

  黒木為楨(くろきためもと)大将率いる第一軍4万2000名が鴨緑江を挟んでロシア軍2万4000名に攻撃を開始した。午前9時には九連白を占領した。日本軍の死傷者932名、ロシア軍は3000の兵と砲21門を失って退却した。

  この戦いの結果、日本軍の外債募集にも好影響をもたらした。
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【3】南山の戦い

 1904年5月5日から13日 第二軍(第1、第3、第4師団)が大沙河河口に上陸

 1904年5月19日から 大狐山に第10師団上陸

 1904年5月25日から26日 南山の戦い 日本軍3万8500名、ロシア軍1万7000名が激突し、日本軍の死傷者4387名、ロシア軍の死傷者1137名だったが、日本軍が南山を占領

 1904年5月30日 日本軍が大連占領


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 第二軍の損害が大きかったので第二軍は遼陽方面に向かい、旅順攻撃のために新たに第三軍を派遣した。

 1904年5月 第一軍が鳳凰城を攻略


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【4】黄海海戦

 1904年6月11日 旅順艦隊がウラジオストックに向かうが聯合艦隊待ち伏せを受け旅順に戻る。

 1904年6月15日 玄界灘沖の沖ノ島付近で常陸丸がウラジオ艦隊により撃沈された。

 1904年6月30日 本山港沖にウラジオ艦隊が現れ艦砲射撃を実施

 1904年7月30日 ウラジオ艦隊が津軽海峡を東に抜けて太平洋側で高島丸など5隻を撃沈し東京湾沖に出現

 1904年7月 第一軍が摩天嶺を攻略


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  第四軍(野津道貫大将)率いる第5師団と第10師団が柝木城(ひらきじょう)を攻略


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 1904年8月 第一軍が様子嶺を攻略

 1904年8月7日 ニコライ2世が旅順艦隊の脱出とウラジオストック行きを命令

 1904年8月10日 旅順艦隊(戦艦6隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)が旅順を出発し黄海海戦が始まった。ロシア軍は18隻のうち8隻を喪失し、ウラジオストックにたどり着いた艦は0だった。

【5】蔚山沖海戦

 1904年8月14日 蔚山沖海戦でウラジオ艦隊(装甲巡洋艦3)を日本軍第二艦隊(装甲巡洋艦4、防護巡洋艦4)が追撃し、ロシア艦リューリクを撃沈し、残った2艦も廃艦同様の損害を受けた。

 

【6】遼陽会戦

 1904年6月 得利寺 第二軍が北上する。


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 1904年7月 大石橋 第二軍が北上する。


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 1904年8月24日から9月4日 遼陽会戦

  日本軍13万4500、ロシア軍22万4600名の戦いだ。

  クロパトキンは戦勢の回復は困難と判断して遼陽から退却したため、日本軍はかろうじて勝利したが、

  死傷者は日本軍2万3533名、ロシア軍は1万7900名だった。



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【7】沙河(さが)会戦

 1904年10月9日から20日 沙河会戦

  日本軍12万、ロシア軍22万

  
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  第四軍が、軍をあげての夜襲を実施し、かろうじて勝利を得た。

  しかし日本軍は弾薬不足と兵力不足でロシア軍主力を捕捉殲滅できなかった。

  死傷者は日本軍2万497名、ロシア軍4万1346名

【8】旅順要塞攻略戦

 1904年8月19日から24日 第1次総攻撃

 1904年10月26日から11月1日 第2次総攻撃

 1904年11月27日から12月5日 第3次総攻撃

  ついに203高地を占領

 1905年1月1日

  第9、第11師団が望台を占領

 1905年1月5日

  旅順開城

 日本軍はのべ13万、ロシア軍4万7000

 死傷者は日本軍4万4000、ロシア軍約3万


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【9】黒溝台会戦

 1905年1月25日から29日 ロシア軍が反撃をしてきた。不意を突かれた日本軍は苦戦するもロシア軍を撃退した。

 日本軍5万4000名、ロシア軍10万5000名

 死傷者は日本軍9300名、ロシア軍1万名
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【10】奉天会戦

 1905年2月21日から3月10日 奉天会戦

  日本軍25万、ロシア軍31万

  死傷者は日本軍7万 ロシア軍6万

 本ゲームではユニット化されていないが、最右翼には鴨緑江軍と第14師団がいて撫順に向けて進んだ。
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 またもロシア軍は日本軍による包囲を恐れて退却した。

 日本軍は追撃するには弾薬不足と将校不足でロシア軍を逃した。

【11】日本海海戦

  1905年5月27日から28日 日本海海戦で大勝利

 

【12】樺太作戦

  1905年7月7日から7月31日 日本軍が樺太に上陸し最北端まで占領した。

 

【13】ポーツマス講和会議

  1905年8月9日から9月5日まで本会議10回、秘密会議や非製紙機械県を何度も実施し9月5日に調印した。

 

【14】感想

 『日露大戦』では1904年4月が第1ターンだが、実際の開戦は2月だったのには驚いた。また、開戦に至るまでの経緯も興味深い。ロシアが国境侵犯してきたり、清国に中立を守らせ、韓国は通告せずに占領した、というのも興味深い。

 『日露大戦』のカード一枚一枚にある出来事も、史実を知ると、より一層、面白くなる。

 

 このゲームは少ないユニット数で、小さいマップで、カードも興味深いカードが多く、日露戦争の雰囲気を堪能できる傑作ゲームだと思う。

 

今年は日露戦争開戦120周年だ。このゲームをプレイすることで日露戦争関連書籍を読むことで120年前の歴史を学び、当時の人々へ思いを馳せるきっかけとしていいゲームだと思う。